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  • 執筆者の写真Saudade Books

インタビュー 中学生読書日記 韓国文学編

更新日:2020年10月3日



(ま)



(ま)というのは仮名で、BTSやTWICE、解散してしまったWanna OneなんかのK-POPが好きな、いまどきの女子中学生(14歳)です。アイドルグループを通じてお隣の国・韓国のカルチャーに興味を持ち、ときどき自宅の本棚にある現代の韓国文学の翻訳を学校に持って行って読んでいるようです(中学校では「朝読の時間」というのがあるのです)。「中学生韓国旅行日記」に引き続き、父親であり、編集人である私が聞き手になって、読書の感想をインタビューしました。(アサノタカオ)







一人一人に思いを話したいと思うようになったから、「ことば」が出てきた



——出版社のクオンからでている「新しい韓国文学」というシリーズのなかで、ファン・インスクの小説『野良猫姫』(生田美保訳)がおすすめ、と聞いたので(ま)に読んでもらいました。作者のファン・インスクは詩人で、猫をテーマにした作品が多いから「猫詩人」と呼ばれているそうです。まずは、内容を紹介してください。


(注=ファン・インスク(黄仁淑)は1958年、ソウル生まれ。ソウル芸術大学文芸創作科卒。1984年京郷新聞新春文芸に詩「私は猫に生まれたい」が当選し、詩壇デビュー。1999年に東西文学賞、2004年に金洙暎文学賞を受賞。実体験をもとにした『野良猫姫』は初の小説。)


 主人公のファヨルは20才の女の人で、ソウルの町の坂道で野良猫に餌をあげている。ベティとかアビとか名前をつけて。お父さんは彼女が子供の頃に行方不明になって、美人で自由人のお母さんもアメリカに行ってしまって、ファヨルは高校を2年生で中退してコンビニでアルバイトをしながら一人暮らしをしている。この小説は、ファヨルの目から見た一人称で、家族や猫好きの仲間たちとの関係のことが描かれる。短編集みたいに、1章ずつがショートストーリーになっていて、読みやすい。けっこうおもしろかったよ。


——主人公のファヨルってどんな人物なの?


 まわりの登場人物たちにはそれぞれ個性というかはっきりしたキャラがあるんだけど、ファヨルにはあまり特徴がない。おとなしくて出しゃばらないし、感情的でもない。〈笑う猫のお隣さん〉というインターネットの猫好きのコミュニティに友だちはいて、面倒を見てくれる親戚もバイト先のコンビニの店長もやさしいんだけど、彼女は居心地がいいだけの世界で生きているわけじゃなくて、はじめのうちは誰と会話していても心から打ち解けることがない。


——うん、社会生活をして人付き合いをまったくしないわけじゃないけど、いつも独特のさびしさを抱えている感じだよね。


 野良猫に餌をあげていると町の婦人会長から文句を言われるからびくびくしているし、コミュニティのメンバーの飲み会に行っても大学生の従姉妹たちと学生街のカフェに行っても、まわりになじめない。韓国はものすごい学歴社会なんだけど、ファヨルは大学に行っていないから、そういう場所でどこか冷ややかな目で見られているみたいで。人間関係の居心地の悪さや輪から外れる感じも、わかりやすく描かれている。


 ファヨルは孤独だから、野良猫のことが好きなんだろうね。野良猫たちも孤独だから。


——そのファヨルの「孤独」を強く感じた章があれば教えてください。


 「分別のない母」という章。ファヨルが小学校の一年生の時、お母さんにプールに連れて行かれるのだけど、ひとりで置いてきぼりにされるという話。彼女はそのことを悲しい出来事として語るわけではないんだけど。


——そうそう、悲しい出来事を悲しい出来事として語るわけではない。母親や家族との関わりでつらかったはずのことを語るときも大げさに泣いたり怒ったりするわけではないから、読んでいると余計に彼女のこころのなかの影を感じる。


 でも、ピルヨンっていう19歳のボーイフレンドと出会う後半から、ファヨルが「ふふふ」って笑ったりする明るいシーンが増えて、まわりの人たちとの関係もよくなるというか、否定的な話がなくなっていく。ピルヨンは、中学校を中退してチキンの配達の仕事をしていて、性格が明るくて、すこしやんちゃで、両親からすごく愛されている。つまり、ファヨルと正反対のキャラ。それから、町の坂道にいる猫好きの仕立て直し屋のおばさんたちと仲良くなったり、雨の日にベティの小屋を直してくれるおじさんがあらわれたり。


——この小説のなかで、明るいシーンとして印象的だったところはありますか?


 「列車に乗って加平に行って」っていう入院したピルヨンのお父さんのお見舞いに行く章からの話がよかったな。彼のことが好きだっていうファヨルの素直な気持ちが出てくるところがうまく表現されていると思う。


——うん、あそこはしみじみといい場面だし、ファヨルの親子関係の傷も含めて深い話がさりげなく語り出されるところだよね。ところで、さっき「韓国はものすごい学歴社会」という話が出たけど、彼女は最後、大学に行かないで詩や小説やエッセイを書くもの書きになりたいという夢を語ります。


 書くというのはファヨルには向いていると思った、孤独を生きているから。 「空しい、私の年」という彼女が書いた詩で、「私」はポプラの森を夢見るのだけど、自然界のなかで自分の心だけが無機物であるようなさびしさを感じつづけている。「私は泣きません、それに、笑いもしません」と繰り返すでしょう。それでも「私」にとって、ポプラの森は帰りたい場所としてある。


——「私」というかファヨルにとって、帰りたい場所ってなんだろう?


 ファヨルにとっては、大事な人との関わりということかな。彼女は大学に入って同年代の友だちをたくさん作って人間関係を広げておしゃべりしたり遊んで騒いだりするとか、そういうことはしたくない。人間関係は、家族と親戚、猫仲間、ピルヨンとか限定的なものに止めたいと思っている。その限定的な、大事な人との関わりに踏み出して、少しずつこころを開いて、一人一人に思いを話したいと思うようになったから、書きたい「ことば」が出てきたんじゃないかな。


——たしかに、詩でも小説でもエッセイでも、ことばの表現は、それが届いてほしいと思う相手がいるからこそ生み出されるものだろうからね。なるほどなあ、ファヨルの物語ってそういうことか。


 それから、『野良猫姫』は「メタくない」ところがいいと思う。(ま)は小説や詩で「メタい」のはいやなんだよ。


——え、「メタくない」とか「メタい」って何??


(注=(ま)の説明を敷衍すると、小説などの作品で物語の外にいるはずの作者の発言が物語内の世界に介入するなどのメタフィクション的な表現技法から派生して、作家の思想や感情や価値観が強く投影されている印象を受ける作品がメタい、そうでないのがメタくない、ということらしいです。)


 たとえば、作者自身の思い入れでいかにもな感じの「雄大で美しい自然」の表現なんかされると、読んでいても嘘くさくて。こういうメタいのは、苦手。でもそうじゃなくて、話の本筋から少し外れる余談というかエピソードというか、登場人物たちの背景にあるいろんなものを細かく説明するのはメタくないから、読んでいる自分も物語の空間に入り込んでいるみたいなリアリティが感じられておもしろい。たとえば、ファヨルの猫仲間でバリイモさんっていう人がいて、彼女の息子が兵役に行く話が続くところとか。


——ふーん……。


 作者の考えの表現っておしつけになるけど、登場人物たちの説明って受け入れるしかないじゃん。


——うーん、そういうものかな……。


 そういうものだよ。『野良猫姫』はメタくない小説ってところがいいと思う。前に読んでおもしろかったチョン・セランの『フィフティ・ピープル』、あれもメタくない小説。


——メタいメタくないっていう分類はちょっとよくわからないところがあるけど、うん、まあいいや。ところで、この小説にはいろんな野良猫が登場するけど、(ま)がかわいいと思った猫は?


 アビだよ。アビシニアンっていう高級種の捨て猫、きれいな顔つきでファヨルにだけ人懐っこい。(了)





『現代詩手帖』2019年8月号に、アサノタカオがイベントのレポート「チョン・ハナ K-文学を「詩」で味わう夕べ」を寄稿しました。写真撮影は、一緒に参加した中学生の(ま)が担当。神保町のブックカフェ、チェッコリで開催された韓国の詩人チョン・ハナさんのトークと朗読。終了後に感想を聞いたところ、(ま)は「最近の韓国カルチャーの世界で、どうしてフェミニズムやMeToo運動のことが話題になっているのかがわかった」と言っていました。(アサノタカオ)



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