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Walkabout #12 心を開くということ—ある子どもたちとの出会い(浅野佳代)

最終更新: 2019年10月19日



旅とヴィパッサナー瞑想の実践を通じて学んできたブッダの教え、自然の教えをテーマにしたエッセイです。





金澤翔子さんの書。円覚寺にて


ある子どもたちとの出会い


最近、とあることがきっかけで、「先生」と呼ばれる仕事に携わることとなった。まったく意図していなかっただけに不思議なのだが、自然な流れでそうなった。これまでに何かを教えた経験はないから、自分でそうしようと思っていたら、おそらく躊躇していたことだろう。


私のことを「先生」と呼ぶのは、学習支援が必要な発達に障がいをもつ小学生や中学生の子どもたちだ。彼らは学校が終わってまっすぐに教室にやってくる。彼らからすると、そこにいる大人はみんな「先生」になるらしい。せいぜい「新しい先生」「いつもいる先生」の違いがあるくらいで、初対面であっても気兼ねなく話しかけてきてくれる。


経験のない、初めてばかりの環境で、どうしていいのかわからず戸惑う私に、声をかけてくれるのはいつだって子どもたちのほうだ。「ねぇねぇ、アンパンマンのこのキャラクター、知ってる?」「昨日はディズニーシーに行って来たの」「ぼく、卓球がやりたいな」。こちらから質問をしなくても、突然彼らの方から自分が好きなものや、家族のことや、昨日の出来事など、色々と教えてくれる。


逆に、私たち大人といえば、こちらから質問しない限り、わざわざ向こうから話しかけたり、何かを教えてくれることはほとんどない。それが長い間あたりまえになっていたけれど、子どもたちにとってはあたりまえのことではないらしい。もちろんすべての子どもがそうではないし、言葉をほとんど発しない子どもも中にはいる。けれども多くの子どもたちは、目の前にいる人が初対面であっても、臆することなく話しかけてくるほどにオープンだ。このような障がいを持つ子どもたちと過ごしてみて、そのことにまずは驚いた。自分も子供のころ、そうだったのかもしれないけれど、ずいぶんと長い年月とともにすっかり忘れてしまっていた。


そう、人と仲良くなりたいなら、まずは自分のことを話せばいい。何が好きで、何が嫌いで、家族は何人で、休日はどんなことをするのか、など。それは全然難しいことではないはず。そして、彼らと話すときのように、他愛のない話でじゅうぶんなのだ。「昨日はこんなことがあった」「最近タピオカミルクティーをよく飲むよ」とか。ほんとうに、なんでもない話に子供たちは目を丸くさせ、耳をすませる。そして「あ、僕もそれ知っている」「私も好き」と反応を返してくる。興味がない話題であれば返事をしないが、聞いていないわけではない。それでいいのだ。会話の内容にとくに重要な意味はなく、まるで雲が流れていくかのように、会話はどこからともなく現れてはやがて消えていく。話したければ話すし、話したくなければ話さなくていい。それは、勉強ができる、できないに関係なく、とても健全なやりとりだ。


それなのに大人はいつだって忙しい。いろんなことを教えてくれている子供たちの話にゆっくりと耳を傾ける余裕がほとんどない。いつもバタバタとあちこち動き回って、少しもじっとすることがない。子どもたちのほうが冷静によく周りを見ている。大人よりも感情の起伏が激しかったり、集中が続かなかったりするけれど、彼らはいつだって、いまこの瞬間とともにいる。耳をそばだて、世界をよく見ている。


言葉でうまくコミュニケーションがとれない子どもたちであっても、こちらの言うことは理解しているということが、言葉以外のコミュニケーション(アイコンタクトや相槌など)によって伝わってくる。彼らとは、ゲームをしたりトランプをしたり、「何かを一緒にする」ということによって、信頼関係が作られていく。逆に、どんな子にも言えることだが、信頼関係のないままに一方的に押し付けたり、言い聞かせることは難しい。



AちゃんはただAちゃんであるだけ


ある日、街でダウン症のAちゃんとばったり会った。こちらが話しかけるタイミングと彼女がわたしのほうを見るタイミングが同時だったから、お互いに、「ああ」と言って微笑んだ。


「Aちゃんこんにちは、今日も教室があるの?」

「ううん、今日はお仕事なの」(お仕事とは養護学校の職業訓練のことを指す)

「へぇ、お仕事かっこいいね、すごいね」と、つまらない気遣いをする私に、その子は静かに微笑んだ。

「もう仕事は終わって今から帰るところなの」

「そっか。じゃあ気をつけてね、さようなら」


出会って別れるまで、ものの2、3分だっただろうか。ほんの少しのやりとりなのに、私は心のうちにあたたかなものを感じていた。Aちゃんは、大人のようなよけいな気遣いはしないし、むしろできない。ただ目の前の事実だけを淡々と話す。今日はこんなことがあった、親戚が広島にいる、お姉ちゃんはいま大学生。とつとつと話す会話の中によけいなストーリーを乗せることはほとんどない。だから彼女には「すごい」とか「すごくない」が通用しない。他の子と比べてAちゃんがどうか、と心配するのは大人の私たちの方だ。いつだってAちゃんはただAちゃんであるだけだ。


学習ができない、まわりとうまく調和がとれない、コミュニュケーションが難しい、手足の力が不十分である、体の免疫力が弱い。そういったことは、子どもたちが今ここに存在していることと何ら関係がない。何かが「できる」「できない」以前に、彼らは彼らであること、いのちがここに在るということは、疑いようのない事実だ。「できない」ことにフォーカスすると見えなくなってしまうその事実を、ひたすらまっすぐみつめてみる。すると彼らの瞳の奥に、光が灯るのが見える。いのちといのちの交流が起こるその瞬間、私たちはお互いにただ存在しているだけだ。


ダウン症のAちゃんには夢がある。将来、産婦人科の先生になること。そのために勉強をして大学に進学したいのだと。正直に、まっすぐな瞳で私をみつめながらそう教えてくれた。「小さな赤ちゃんが大好きだから、助けたいの」と。誰かにどう思われるかなんてまったく気にもしない様子で、A ちゃんは淡々と真実を打ち明けてくれた。


そういえば私は話を聞くばかりで、私自身のことを彼らに何も伝えていない。それはフェアじゃないから、子どもたちを見習って私も私自身のことを淡々と、心を開いて打ち明けていけるといいなと思う。



プロフィール


浅野佳代(あさの・かよ) 瞑想と文筆。サウダージ・ブックス代表。

Instagram: @kayo_saudadebooks



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