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  • 執筆者の写真Saudade Books

Hello folks #10 海を越えて #1 アリス(太田明日香)

更新日:2019年10月20日


2年間のカナダ滞在経験から「外国で暮らすこと」や「外国人になること」を考える詩とエッセイの連載です。



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海を越えて 


わたしたちを分かつもの

それはただの海だった


わたしたちだった人たちを

だれもが思い出していた


海を越えたその先で

同じ言葉と同じ顔

思い出すのは同じ海


わたしたちを分かつもの

金、生活、もう何年も


わたしたちだった人たちを

稼ぎ、暮らす毎日が

知らない人に変えてゆく


あの海はなんども越えた

だけど、同じ海はもう見ない


わたしたちを分かつもの

国、戦争、パスポート


わたしたちだったころを

みな忘れ覚えていない

そこにいたことも


わたしたちのあの海は

鮭を追って

越えた海


わたしたち、だったころ

わたしたちはそこにいた



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アリスとの出会い


アリスに初めて会ったのは、コミュニティセンターだった。年はおそらく60代(カナダでは年齢を聞くことはあまり一般的ではなくて、結局聞けなかった)。彼女はそこでボランティアをしていて、移民の人たちに英語を教えるクラスの先生や、移民の人が自分の国の料理を教えるクッキングクラブのお手伝いをしている。最初に彼女に会ったとき、思わず日本語で話しかけそうになった。はっきりと言葉にはできなかったけど、どことなく日本人だと思わせる雰囲気があったのだ。


ところが実際に話してみると、とてもきれいな英語を話す。不思議に思っていると、祖先は日本人で両親は日系2世だと教えてくれた。そのときわたしは初めてカナダにも日系人がいることを知った。それほどカナダでは日系人は目立たない存在だったのだ。バンクーバーには今は形を変えつつあるけど、中華街やギリシャ人街、イタリア人街と、エスニックタウンがあるのに、日系人街があるとは聞いたことがなかった。過去に日系人が来ていたのに、どうしてほかの国の移民たちのように日系人コミュニティを築かなかったのか不思議だった。それに、ほかの国の移民たちの多くはそのコミュニティで育ちながら母国の文化や言葉を学ぶことが多い。だけど、アリスは両親が日系人だというのに、日本語を話さない。そのこともとても不思議だった。わたしはアリスとの出会いから、カナダに住む日系人たちの歴史に興味を抱くようになった。



バンクーバーのアレキサンダー通りにあるバンクーバー日本語学校、現在は日系人会館としても使われている


アジアから移民がやってきた理由


カナダはもともと大西洋側のイギリスの植民地だったニューファンドランド島やフランスの植民地だったケベックから開拓が始まった。最初はイギリス人やフランス人が中心だったカナダに、どうしてアジア系移民がやってくることになったのだろう。


1500年代から鱈漁やビーバーの毛皮を求めてフランスやイギリスの船が大西洋側に出入りするようになった。1600年代に入ると、イギリスやフランスによって入植が開始され、1756年から63年までのイギリスとフランスによるフレンチ・インディアン戦争の結果、イギリスの植民地となった。太平洋側では1778年にジェイムズ・クックによりバンクーバー島が発見されイギリスに領有された。1846年には太平洋側のアメリカとの国境が確定し、毛皮交易のために入植者がやってくるようになった。


南側のアメリカに対抗し、国家として力をつけるためには、東西開拓の進んでいない大陸の中央部に人を送り込む必要があった。開拓のため、1800年代にはイギリスからだけでなく、アイルランドやドイツ、東欧からも移民が呼び寄せられた。さらに国家の統一と物資の輸送のために大陸の東西を結ぶ鉄道建設が必要となった1880年代には、太平洋側のブリティッシュ・コロンビア州では肉体労働者として中国から大量の移民がやってきた。バンクーバーは、1867年に製材所ができ、鉱業や農業、漁業などの産業が興った。イギリスの臣民であったインド人や、開国により海外渡航が可能になった日本人も労働者としてやってきた。


最初の日本人移民とされているのは、1877年にやってきた永野万蔵(ながのまんぞう)だ。日本人たちはカナディアンよりも低賃金で肉体労働に従事した。やがて彼らの中には待遇改善を目指して自分で事業を起こす人もでてくる。林業会社、鉱山会社、農場、水産会社を立ち上げた人たちは、自分たちで日本人を呼び寄せ、自分の工場や会社で雇った。彼らは徐々に自分たちのコミュニティを作るようになった。1901年には日系人の人口は4738人にまで増えていた。バンクーバー島のナナイモやバンクーバーのダウンタウンにあるパウエル通り、バンクーバーの南にあるリッチモンドの漁村スティーブストンには、日本人街が形成された。



バンクーバー島のビクトリアにある日系人墓地。多くが明治時代のもので、20代や30代と若くして亡くなった人の墓石が多い

写真花嫁としてカナダに来た祖母


アリスの祖母がカナダの地を踏んだのは、1912年16歳のとき。彼女は故郷の和歌山から、ある男性の写真一つをたよりに、異国の地へ渡った。船には同様の境遇の女性たちがたくさんいた。


どんどん増えるアジア系移民に危機感を抱いたカナダ政府は、1908年に移民の数をコントロールするために家族での移民を禁止し、単身者のみに制限した。そのため、男性らは配偶者となる女性を業者や知り合いを介して、互いの写真を交換し、気に入れば結婚相手として呼び寄せた。アリスの祖母もそうやってカナダに渡った「写真花嫁(ピクチャーブライド)」と呼ばれる女性たちの一人だった。


アリスの祖母は写真で見た男性と結婚し、子どもを1人生んだ。しかし、夫となった人はお酒が入ると妻に暴力をふるった。彼女は離婚し、女手一つで子どもを育てるために、当時スティーブストンの主要産業だった魚の缶詰工場に働きにでかける。


スティーブストンを流れるフレイザー川は鮭が遡上することで有名で、漁業や水産加工業でにぎわう町だ。1888年、フレイザー川を埋め尽くす鮭の大群を見た和歌山県三尾村出身の日本人漁師工野儀兵衛(くのぎへえ)が、地元から多くの漁師を呼び寄せ、多くの和歌山県出身者が移住。日本人漁師たちはよく働いた上漁業技術に長けていたので、重宝された。その妻たちの多くは、缶詰工場で働いた。彼女たちも手先が器用だったので、ありがたがられたそうだ。そうしてだんだん漁業関係の仕事は日本人が中心になっていった。アリスの祖母は缶詰工場で働くうちに、別の日本人漁師と知り合って再婚し、アリスの母が産まれた。



写真花嫁はこういった写真をもとに見合いをして、カナダにやってきた(バーナビーにある日系センターの日系人の歴史展示のパネルより)

1988年の和歌山県人の渡加100周年を記念し、工野儀兵衛を顕彰して作られた工野庭園。近くには2000年にB.C.和歌山県人会35周年を記念して植えられた桜並木もある

差別されてきたアジア人


わたしとアリスはとある日、ブリティッシュ・コロンビア大学の中を歩きながら話していた。2015年で100年を迎えるこの大学はバンクーバーのダウンタウンの向かいにある半島の先を占めている。大学の周囲には住宅街と広大な自然林のハイキングルートがあり、平和な雰囲気に満ちている。140か国から58000人が通うという大学の構内を歩いているだけで、さまざまな国の言葉が聞こえてくる。歩きながら、アリスは話の間に何度か「レイシズム」という言葉をつかった。レイシズムを日本語では人種差別という意味だが、この平和な雰囲気の中で聞くと、その言葉はひどく場違いに聞こえた。


1800年代後半から急増するアジア人は、1900年代初頭にはブリティッシュ・コロンビア州では人口の10%までになっていた。アジア人に対する差別感情は、さまざまな形で政策に反映された。中国系移民に対しては、1885年以降1人50ドルの人頭税がかけられ、1903年にはそれが500ドルに、最終的には1923年に移民自体が禁止された。


さらに、アジア系移民に対する偏見、憎悪により、排斥運動も起こる。カナダの日系人も例外ではなかった。よく働き、人よりもよく稼ぐことは美徳である一方で、人からのねたみも買ったのだ。1907年にはアジア人移民に反対する人種主義団体によって、パウエル通りの中国人街、日本人街は打ち壊しに合った。バンクーバー市内だけで、40%近くのアジア人を占める現在の状況から見ると、そんな過去があったことに驚きを隠せなかった。



スティーブストンの港。左側がブリティッシュ・コロンビア州の旗で、右側がスティーブストンの旗。日本人がたくさんいたという歴史から、日の丸をモチーフにしている。真ん中に魚の絵が描いてある

敵国人とされた日系人


1941年12月8日の真珠湾攻撃により、それはピークに達した。バンクーバーの日系人は、カナダ国籍を持っている人でさえも日本にルーツを持つという理由だけで敵国人とみなされ、財産を没収され、収容所に送られることになった。1942年1月にブリティッシュ・コロンビア州の海岸から100マイル(160km)を防衛地域に指定した。


2月から10月のうちに、日系人はこのブリティッシュ・コロンビア州の100マイル以内の海岸区域から強制的に立ち退かされることになった。アリスの父母だけでなく、2万2000人の日系人にとっては、辛い時代だった。


日本が負けて戦争は終わった。しかし、彼らは元の土地に戻ることができなかった。当時の首相だったマッケンジー・キングは、戦争中から日系人の勢力を脅威だと感じ、ブリティッシュ・コロンビアから分散させるべきだとして、日系人にロッキー山脈よりも東に住むか日本に帰国することを選択させた。さらに1945年に戦争が終わったあとも、1949年まで日系人がブリティッシュ・コロンビア州の100マイル以内の海岸区域に住むことを禁止した。そのため、日系人たちはブリティッシュ・コロンビア州を離れ、東部に行くか日本に帰るか選択しなければならなかった。そのうち帰国を選択したのは4000人程度だったと推測されている。



スティーブストンにあった缶詰工場の跡地。州の主な産業の一つだった。案内文によると、1900年代には日本人、インド人、先住民などが働いていた

アリスの生い立ち


アリスは、かつて住んでいたスティーブストンから離れた山の中の村で生まれたそうだ。そこにはほとんど日本人が住んでいなかった。アリスも幼い頃には母の和歌山弁、父の静岡弁を聞いて育った。しかし、学校に通い英語を習いだすと、周りに日本語を使う人がいないので、次第に話さなくなったそうだ。アリスが日本語を話したのは8歳までだった。


彼女の両親は教育熱心だった。カナダでは日系人は1950年代まで弁護士、医師、教員、など専門職種や公務員に就くことが認められなかったそうだ。そのため、勉強ができる人や有能な人は実業界に行くしか道がなかった。彼女の親戚は商才があったようで、戦後和歌山からやってきたおじは、水産加工工場や漁船で鮭の卵が捨てられているのを見て、それらを安く買い取っていくら加工工場を作り、財をなした。農場をバンクーバーの南にあるリッチモンドで開いたいとこは、イチゴ栽培で財をなした。両親も彼らの成功を見て、人に雇われて工場労働者や漁師になるのではなく、自分で自分のビジネスをやるようにと、アリスに進学を勧めた。


アリスの祖母は戦後一度戦後和歌山に帰った。しかし、故郷は変わり果てていた。彼女の故郷である小さな村の若者は東京や大阪に働きに出たり、進学したりして、住人のほとんどは老人ばかりになっていた。することがない彼らはうわさ話にあけくれていた。彼女はそれが嫌になってまたカナダに戻ってきた。


その後の日系人による権利獲得運動が実り、また、日系人のまじめな働きぶりが認められて、日系人も公職につけるようになった。アリスはブリティッシュ・コロンビア大学に入学し、栄養学を専攻した。卒業後は病院や学校で子どもたちに栄養指導をするDietitianとして働いた。Dietitianというのは、栄養士のなかでも医学、科学的知識のバックグラウンドのある職業のことだ。彼女はその当時の女性としては珍しく、専門職として資格を取って働き続けた。



スタンリーパークにある日系人の戦争慰霊碑。日系人は第一次世界大戦をはじめ、第二次世界大戦、朝鮮戦争などに従軍した。第一次世界大戦にはカナダ人の信用を得て、参政権を得るために参加したそうだ

アリスの祖父母は日本人で、両親も日系2世だ。だから見た目は日本人そのものだった。しかし、言葉やふるまいや考え方はカナダ人だった。移民がその国に溶け込んで、その国の人らしくなることが同化というなら、彼女はまさにカナダに同化した日系人だと言えるだろう。しかし、日系人がカナダに同化したのは、戦争と人種差別の結果起きたことだとも言える。もし日本人コミュニティが壊されることがなかったら、彼女はそこで日本語や日本の風習を学んでいたかもしれない。


多文化主義で自由な国というイメージのカナダで、過去にそんなことがあったということに少なからずショックを受けた。戦争中、日系人はどのように扱われたのだろうか? また、カナダはどのようにして日系人に補償したのだろうか? 次回は、旧日本人街と日本人収容所を訪れたツアーと、その後の補償までの道のりについて紹介したい。



参考文献


『カナダ史』(山川出版社、1999年)

『カナダ移民史』(明石書店、2014年)


※写真はすべて2015年撮影



プロフィール


太田明日香(おおた・あすか) 編集者、ライター。1982年、兵庫県淡路島出身。著書『愛と家事』(創元社)。連載に『仕事文脈』「35歳からのハローワーク」。現在、創元社より企画・編集した「国際化の時代に生きるためのQ&A」シリーズが販売中。



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