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  • 執筆者の写真Saudade Books

巡礼となりて #7 葉月 旅の終わりにて、夏の終わりにて(佐々琢哉)

更新日:2019年10月19日


高知県の四万十山暮らし、ときどき旅。野の中で素朴で質素な営みを願う日々を詩とエッセイでつづります。



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8/29 TOKYO:昨晩、この夏3か月を過ごした、シベリアより日本へ戻ってきました。クラスノヤルスク空港へと向かう長距離バスから眺めた山々では、葉は黄色く色づき、もうすでに紅葉が始まっていました。ここから、一気に、人々が口にするマイナス40度の冬の世界へと移り替わっていくのでしょうか。ここの冬を訪れたことのないぼくは、ただ、ただ、人々のその言葉とその表情から、想像するのみです。しかし、清々しく澄んだ秋のはじまりの空気の先に漂う、さらなる凜とした気配は、圧倒的なまでの静寂の景色を、ぼくのこころに広げていました。劇的な季節の移り変わりは、人々の心情にどのような変化をもたらすのでしょうか。いつか、ここの冬を訪れてみたいものです。


鮮烈なる夏と冬の季節の合間に、秋のはじまりの光は、刹那の均衡を保って揺れていました。蒼天の秋空の下、その光に包まれた、街に山、人々の営み、家畜たちのいななき。すべてのものに宿った夏の火照りは、その光の粒子の中へと、静かに、静かに、解き放たれていくようでありました。光は、陰影の強さをもたらし、目に映るすべてのものを、より愛おしく、より神々しい存在へと、照らし出していました。きっと、自身の旅の終わりの心情も目に映る景色に、反映されいたことでしょう。しかし、どうにも、この季節のはかなさに、こころが揺れ動くのです。




旅の最後の数日を過ごした、タイガの小さな小さな村。実は、ここの村へは、今回の旅の一番はじめにも訪れていました。その村は、ハカス共和国にあります。ハカス共和国の首都アバカンは、空港から、今回の旅のメインの滞在先であったトゥバ共和国の首都クズルを目指す、ちょうど中間点にあり、ぼくは、空港からの行き帰りに、アバカンに住む友人ファミリーを訪ねました。「こちらで、どんなことがしたい?」との友人からの問いに、「シベリアの自然に触れたい、田舎の人々の暮らしを見てみたい」との、去年の訪問時と変わらぬぼくの答えに、こころ優しい友人はあらかじめ計画を練ってくれていたのでしょう。ぼくが日本から到着すると、早速、彼らの友人が暮らすその村へと、連れて行ってくれたのでした。


6月初旬、街から車を走らせ、村に着き、人の姿を探して通りから見回すと、ペンキで塗られた手作りの柵の向こうで、レナは家の庭にせっせと種を蒔いていました。何かその奥に思索を含んだようなレナの笑みは、これから夏が始まろうとする喜びを、地面にいっぱいに忍ばせ、何かを企んでいるかのようでありました。あれから、2か月半が過ぎて、再び訪れたレナの庭。そこは見事に、背丈ほどの緑の茂みへと成長していました。毎日、庭の野菜や果実を収穫して、料理して、ご飯を食べさせてくれました。山で摘んできたキノコに、ベリーも、お皿の上に並んでいました。食卓には、大輪の花が飾られていました。畑には、野菜だけではなく、様々な種類の観賞用の花も植えられていました。なんとも、慎ましくも賑やかな、そして、野性味に溢れた庭なことだろう。レナの人柄を表しているようです。元気に咲いている花の一つ一つを覗き込めば、そこにも、万華鏡のように夏の景色が仕込まれていました。一日の合間、合間には、様々な種類のハーブティーを飲ませてくれました。部屋のあちらこちらには、冬に備へて乾燥保存させるために、豆や、スライスした野菜、ハーブが広げて干してありました。




夏の入り口に、はじめて訪問した、その晩。レナは「ここは、日本人につながりのある場所なのですよ」と、夕食後の和んだ空気の中に、一つのアクセントを置きました。そして、食卓から椅子を引きずり、本棚の前に構えてそこに上がり、一番高いところに手を伸ばし、ある一冊を抜き取って、ぼくに手渡してくれました。レナのその仕草は、まるで、日常とは全く異なる静かな時間の流れる本棚の世界から、砂時計の砂の一粒を、こちらの世界へとつまみ出してきたかのようでした。彼女の謙虚な知性と、タイガでの隠遁生活ぶりは、ぼくの潜在意識にさまざまなことを想起させるのです。白いカバーから本を抜き出してみると、それは、日本語で書かれた、日本人画家の作品集でした。ぼくは、こんなロシアの片田舎に日本語の本があることに、とても、驚きました。「彼は、ある一時、ここにいました」とレナは言いました。本を広げ、そこに収められた絵を見ていくと、「シベリア」という文字が、痛ましい絵とともに並んでいました。「ここのすぐそばには、戦後の日本人抑留地がありました。彼もそこに捕らえられた一人でした」と、レナは言いました。「厳しい労働条件のもと、ここで亡くなった日本人のためのメモリアルがあるのですよ。機会があれば、どうか訪ねてみてください」と彼女は言いました。しかし、翌朝、ぼくたちは、短い滞在を悔やみながら、レナに別れを告げ、車を街へと走らせました。




この夏の旅の終わりに、この村に、再び、帰ってくることができました。驚いたことに、アバカンの友人は、ぼくをこの村まで連れて来ると、仕事があるからと、ぼくを宿に残して、早々に帰ってしまいました。一人取り残され戸惑ったものの、この場所にまた帰って来れた嬉しさに、両手の内に包めるほどのあたたかな感触が灯るのを感じました。緑豊かな河川敷に立つ、もと火力発電所跡を改築した趣ある宿は、前回も泊まっていて、とても気に入っていたのです。外の階段から2階の部屋に上がり、荷物と食料を下ろしたところで、窓越しに薄暗くなってきた外の景色を見ると、すぐ目の前に山々が連なっていました。街で数か月のアパート暮らしだったぼくにとっては、ここでの数日の滞在は、シベリア最後の日々に、とっておきのご褒美となりました。




翌朝、レナの家を訪ねました。レナは、ぼくの顔を見ると、相変わらずの含み笑いを浮かべて、迎えてくれました。お茶を飲みながらしばし話した後に、ぼくは、「チャンスがあれば、日本人のメモリアルの場所へ連れて行って欲しい」と、お願いしました。今回は、数日の滞在なので、きっとそのチャンスがあるはずです。ぼくは、夏の始めにメモリアルことを聞いてから、それがある場所をこころに描き、その地に自分が立った時、どんなことを感じるのだろうと、想像をしていました。この夏、そのことが、ずっとこころとに引っ掛かっていたのです。


ぼくの滞在も最終日となった日の朝、「今日の午後、メモリアルを訪ねましょう」と、レナは言いました。雨やら、用事やらで、この日まで、その機会は訪れていなかったのです。「私のパートナーが帰ってきたら、車で行きますから」と伝えられ、お昼過ぎの待ち合わせをしました。ぼくは、それまでいっときの時間があったので、村の後ろに広がっている森へと続く道を辿りました。タイガに自生しているラズベリーの実を摘んだり、草原で寝転んだりしながら、山を散策しました。まだ、日中の照りつける日差しは強いものの、秋の澄んだ空気と、突き抜けるような秋空が広がっています。草原に寝転んだ耳元には、カサカサと草が擦れ合う音が、聞こえます。その音に伴って、ザクザクともう一つの音が。どうやら、六つ足の昆虫が、草のトンネルの下を潜り抜け、歩いているようです。見上げた枝葉の隙間から、キラキラと光が降り注いでいます。光のなかに、さまざまな幾何学的なフラクタル模様が踊っています。なんだか、世界の構成要素の細部にまで、こころが広がり、重なり合っていくようです。この瞬間、我が身が幸福感に満たされていくのを感じました。それは、この頬に、秋の空を舞い、木の葉をそよがせていく、やわらかな風を感じるのと、同じ感覚でした。こころの状態は、静かに大胆に、世界の有り様をも変えていました。つまりは、受け取り方によって、同じ景色の中に見える世界が、こんなにも違って見えるのです。



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レナの家に戻ると、他にも数名のこの村で出会った顔馴染みが集まっていました。その中には、「日本人のメモリアルに、ぼくも行ってみたい」と言っていたロシア人の青年の姿もあったので、どうやらみんなで、その場へ向かうようです。大きなロシア製のワゴン車に乗り込み、出発しました。ところが、村を出てすぐのところで、車はアスファルトの車道を外れ、山道に折れ、山の奥へ、奥へと、走っていきました(余談ですが、ロシア製自動車の馬力のすごいこと! ありえないような山道でも、どんどんと突き進みます)。「あれ?」と思ったぼくは、「どうやら、みんなでの山のピクニックに予定を変更したのかな?」と思いを巡らせました。というのも、ぼくが想像していたメモリアルは、こんな山奥にあるのではなかったからです。それは、この村か、隣り村かわかりませんが、すこし人里離れた村はずれの見晴らしのよい丘に、記念碑が佇んでいるイメージでした。車が、どんどんと山奥へと突き進んでいくに従って、訪問の希望が叶わず、がっかりした気持ちにも駆られましたが、同時に、車窓の外のまばゆいばかりの緑の景色に、こころは踊っていました。こんな山奥へは、随分と人が入ってきていない様子です。圧倒的な深い森が、幾層ものレイヤーを重ねていました(ステップ草原が広がるシベリアの大地では、こんなにも植生豊かに、草花や木々に囲まれる場所には、なかなか出会いませんでした。もう、見晴らす限りの大草原なのです。日本の山々が精神的なバックグラウンドにあるぼくにとっては、この植生の多い森に囲まれて、久しぶりに湯船に浸かったような、「あぁ」と、なんとも安堵した気持ちでした)。





「ここですよ、居住地あとは」と、レナが突然言いました。何のことだろうと、見当がつかずに辺りを見回していると、長いこと山の悪道(道と言っていいのか分からない箇所が、ほとんどでしたが)をずっと走ってきた車は、やがて止まりました。車から降りて、レナを捕まえ聞き返すと、「日本人捕虜は、ここに住んでいたのですよ」と言いました。数秒の空白の後、どうやら脳はその情報をちゃんと処理したようで、「あ、やっぱりメモリアルを訪ねていたんだ」との思考に連動して、あたりを見回してみると、その一体だけ、高木がなく、少し開けているような場所でした。腰ぐらいの高さの植物たちが、その一体を覆っていました。しかし、自然の景観の他に人工物らしきものは、一切見当たりません。「ここの山の木を伐るのが、彼らに与えられた仕事でした。その木は、火力発電所のための燃料となりました。発電所とは、いま、あなたが泊まっている宿のことですよ」と、レナは足元に生えるキノコを収穫しながら、この場所の説明をしてくれました。いまは、ただ植物が茂るだけの目前の景色に、少しだけ、当時の光景の輪郭線が与えられました。「さあ、メモリアルを探しましょう」と言って、レナは木々が林立する森の奥へと、キノコの収穫袋片手に、歩いて行きました。村を出発する瞬間に車に飛び乗ってきた、レナの2匹の飼い犬も、それに続き、ぼくの脇を駆け抜け、走って行きました。

どうやら、森の中で、迷ってしまったようです。レンジャーをしているレナは、森を我が庭のように慣れた様子で歩いていくのですが、遠くで声がしたかと思うと、突然、犬と共に後続のぼくたちの前まで戻り、また別の方向へと消えていきました。どうやら、そんなレナの様子から、迷ったというよりも、メモリアルの場所の見当はついているものの、なかなか目的の遺物を見つけられないようです。森に編み込まれた草花木々の網目が、覆いかくしてしまったのでしょうか。レナが、ぼくたちの前に姿を現すごとに、袋の中のキノコの量も、しっかりと増えている様子でした。彼女にとって、森を歩くことと、収穫をすることは、きっと同じ行為なのでしょう。




そして、ついに、「こっちよー!」という、レナの声が森に響きました。立ち往生していた後続のぼくたちも、ようやく、力の入った歩みでもって、その方角を目指しました。歩を進めていくと、目指す方向から、より多くの光が木々の間から差し込んできているのを感じました。一番明るく見えていた一帯へと辿り着くと、そこは、先ほどの居住地と同じく高木が意図的に伐採された(であろう)、空が開けた場所でした。しかし、こちらの空は、よりこじんまりと、そして、隣接する木々の先端を結んだ線によって綺麗に四角く切り取られた空でした。その空の四角さは、「ここが、メモリアルである」ということを想起させるのに、十分なものでした。レナの姿を見つけ、歩み寄って行くと、切り株の横にしゃがみ込んで、キノコの収穫をしていました。切り株からめくれでた根を養分に、見事なキノコが群れ生えていました。手頃なキノコを収穫し終え、立ち上がったレナは、いつもより慎重な笑みと、確かな目線をぼくになげかけ、山のゆるかな傾斜を下方向へと歩いていきました。改めてその場所を眺めると、空と同じ四角い一角に、針葉樹の若木たちが一斉に伸びていました。






ゆるやかな傾斜を下り、皆が集まる場所へ辿り着くと、足元には、大きな大きな白い大理石が地面に横たわっていました。そして、その脇には、灰色の平たい大きな石が、二枚並んで地面に埋まっています。それは、いまは横たわっている白い大理石が、その石を礎に立っていたことを、物語っていました。そして、礎石の上に直立する当時の姿の残像から、地面に横たわった今の白い版石がある位置へと目を追っていくと、その軌道線状に存在する余白には、ある時から止まってしまった時間の空白が、漂っていました。「きっと、家も、メモリアルも、すべて、ここの山の木が唯一手に入る材料として、作られたのでしょう。いまは、すべて朽ちて、草に覆われ、土に帰り、その姿は無くなってしまいました」と、誰かが言っていました。いま、ぼくたちの足元に倒れている、この大きな白い大理石だけが、見つけることのできた、唯一のシンボリックなものでした(すぐ近くの山肌に、大理石の採掘上跡を目にしたので、そこから運んできたのでしょうか)。


せめて、倒れたままの大理石を立て直そうということになり、4人の男衆が集まり動かそうと試みました。しかし、びくともしません。何度もトライしましたが、思うようにはいかないので、腰を下ろして休んでいたら、突然、レナが斧を片手に茂みから現れました。いつのまにか、車まで戻って斧を取ってきたようです。早速、斧で適当な太さの樹を伐り倒し、適当な長さの棒を数本こしらえました。そして、その棒を使ってテコの原理でもって、再び試みると、ついに石は動き始めました。微調整は、斧の刃の根元を引っ掛けて上手に動かしていました(ロシアの人たちは、薪割りに、倒木にと、木に関することならなんでも、斧一本でやってしまいます。中南米の人たちは、マチェテと呼ばれる腰に据えた長鉈一本で、同じように、なんでもこなしていました)。ようやく、白い大理石は礎石の上に立ち上がり、皆の表情にも、何かすっとしたものが通った気がしました。立ち上がった白い石版をぐるりと見回してみましたが、何も文字らしきものは刻まれていませんでした。石がそのままに、ただ、ただ、そこに立っていたという事実は、メモリアルと呼ばれていた場所には、ただ、ただ、若木が成長する姿だけがあった、という事実と同じくに、より多くのことを雄弁に語っていました。この若木たちの一帯も 再び、森へと、成長していくことでしょう。




目的を果たしたぼくたちは、車に乗り込み、山を一気に駆け下りていきました。そして、ぼくは、迎えに来てくれた友人の車に乗って、数時間後には、街へと向かって走っていました。翌朝、空港へ向かうバスに乗りました。その日の晩の飛行機に乗り、空をまたいで、日をまたいで、東京へと帰って来ました。あの森から、48時間後のことです。当時、日本へ帰還することのできた人々のシベリアから日本までの行程は、どれほどのものだったのでしょう。ぼくが、胸躍らせ、眺めていたタイガの草花や森を、彼らはどんな思いで見ていたのでしょう。そして、ぼくがいまだ経験したことのないマイナス40度のシベリアの冬。目に映る同じ景色、しかし、それは、人々の眼差しごとに異なる反射の光を投げ返し、それぞれの現実を投影していくのです。




この旅の最後の日、空港へ向かうバスで止まった休憩所で、檻に入れられ、人々に囲まれた、大きな、大きな、熊を見ました。「この森には、野生動物がたくさんいて、狼に、熊もいますよ」、森を散歩した時のレナ言葉を思い出しました。あの時、ぼくの意識は、木々をすり抜け、この森のどこかに存在しているその気配に思いを馳せ、山々を駆け巡ったのです。檻の中に入れられた熊を目前に、こころの中にあの森や山が広がっていったことは、なんだか世界に奥行きがもうひとつ加えられたような感覚でした。この熊は、檻に入れられた熊ではなく、森からやってきた熊なのです。



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東京に帰ってから手に取って読んだ本に、偶然にも、日本兵の話が書かれているコラムがありました。それは、アメリカ領土へ派遣された当時の日本兵の人々が、再びその地へと、敵として戦った当時のアメリカ兵の人々と共に、老年になってから慰問に訪れるという話でした。年老いた人々の当時の記憶が、綴られていました。蒸し暑さがまだ残る、東京の満員電車の中でそのページに出会ったのですが、こころにはあの森で得た感覚が、胸の奥一帯に巡っていました。それは、若木たちの上に四角く切り取られた空のような確かな輪郭線と、あの白い大理石のような遥かな重みをもった感覚でした。それもまた、こころの空間の奥行きが増していくような感覚でした。満員電車に揺られ、ぼくの目は本の表面に綴られた文字をなぞり、こころはその下を潜りながら進んでいました。



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ぼくは、いつか、あの画家の絵を見てみたいと思っている


旅は、このようにして、興味の連鎖をつなげ、世界を広げていく



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レナと、一緒に行ってくれたみんなに、こころより感謝している、あの場に連れて行ってくれたことを


それは、いまここに在ることの意味を、広げてくれるものであったから


旅は、このようにして、世界を広げていく


内に、外に


過去に、未来に






シベリアから帰ってきて、遠方に住む、もう100歳に近い祖母を、1年ぶりに訪ねました。おばあちゃんは、もう、随分と長いこと寝たきりです。それでも、1年前のその時は、「頭は相変わらずに元気よ」と、随分とお話しができたのに、今回の訪問ではもう一言も言葉を交わすことができませんでした。しかし、ぼくの顔を見たときには、大きな笑みを浮かべて、目尻に皺を寄せながら、迎えてくれました。おばあちゃんの手を握ると、艶やかで気持ちの良いものでした。美しく年老いた女性の手でした。おばあちゃんは、ゆっくり、ゆっくりと、呼吸をしながら、目を瞑っていることがほとんどでした。ぼくは、ベットの横で、ただ、ただ、そのかすかな呼吸に耳を澄ましながら座っていました。それは、安らかな気持ちを、ぼくに与えてくれるものでした。それは、ぼくがおばあちゃんと一緒にたくさんの時間を過ごした、幼き頃の記憶のその姿や、その優しさからは、ずいぶんと遠いものでした。それは、この命をまっとうしていくものの雄大さに包まれる安らぎでありました。しかし、これは、ぼくの勝手な現実なのかもしれません。おばあちゃんの気持ちは、おばあちゃん自身にしか、知りえません。そして、彼女は、もう、語らないのです。しかし、ある意味では、それでいいのだと思います。彼女がここに在ること、そのことは、あの空や若木と同じ雄弁さで、静かに真実を語りかけてきてくれています。肘掛け椅子に腰掛け、おばあちゃんの寝息に耳を澄ましていると、ぼくも、うとうとと、まどろんでいました。遠くに、セミが1匹だけ鳴いていました。





プロフィール


佐々琢哉(ささ・たくや) 1979年、東京生まれ。世界60カ国以上の旅の暮らしから、料理、音楽、靴づくりなど、さまざま なことを学ぶ。 2013年より、高知県四万十川のほとり、だんだん畑の上に建つ古民家に移住し、より土地に根ざした自給自足を志す暮らしをはじめる。全国各地で不定期にローフードレストラン「TABI食堂」 や音楽会を開催。TABIは、中米を1年間一緒に旅した馬の名前。 2016年にローフードのレシピと旅のエッセイ本『ささたくやサラダの本』(エムエム・ブックス)を刊行。





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