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  • 執筆者の写真Saudade Books

巡礼となりて #6 文月 旅先にて(佐々琢哉)

更新日:2019年10月19日


高知県の四万十山暮らし、ときどき旅。野の中で素朴で質素な営みを願う日々を詩とエッセイでつづります。



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TUVA共和国に来てから、もうすぐ2か月になります。


先日、こちらの民族音楽研究者の旅に同行させてもらいました。旅の目的は、地方の人々を尋ね、その土地にまつわるお話や歌を聴かせてもらい、記録することです。こちらの田舎暮らしとは、シベリアのタイガに、羊や牛、そして馬などの牧畜を放ち、季節の草ごとに移動をしていく、遊牧民生活のことを意味します。今回、こうした伝統的な生活を営む人々の暮らしに触れられたことは、ぼくにとっては、願ってもない経験でした。20歳の頃から始めた旅ですが、旅を重ねていく中で、いつの頃からか、ぼくの興味の対象は「暮らし」というものにシフトしていきました。旅先で出会う、それぞれの土地に根ざして暮している人々の姿に、どんどんと惹かれていったのです。そうした想いの連なりから、現在の自身の四万十での暮らしが紡がれていったわけです。


そうは言いながらも、いまでも、やはり、旅に出てしまうわけですが(20代の頃の数年単位の旅と比べたら、今は数か月単位なので、旅の期間としては、だいぶ短くはなりましたが)、そんな現在の旅のいちばんの興味は、やはり、人々の「暮らし」です。どうして「いちばん」と、そんなにもはっきりと言えるのかといえば、ある美しさに出会った瞬間には、こころの反応の仕方が明らかに異なるからです。お勝手の壁に吊るされた使い古された鍋を見た時、その鍋の表面のおうとつに、煤け磨かれたその痕に、こころはちくちくとこそばゆい気持ちでいっぱいになります。時には、そんな暮らしの、一見、何の変哲もないような光景に、手を合わせたい気持ちに駆られる時もあります。もしかしたら、いまのぼくの四万十の暮らしは、ぼくがいままでの旅で出会い、思い出としてストックしてきた、人々の暮らしの「美しさ」のコラージュなのかもしれません。こころの中に記憶として残っているその輝きを、ひとつひとつ取り出して、現実の形として日々の暮らしの中に並べていっているようでもあります。


今回のタイガへの小旅行では、バブーシュカ(ロシア語で「お婆ちゃん」の意)の歌を耳にする機会が幾度かありました。ストーブの薪が燻るユルタ(遊牧民の住居である移動型の天幕)の中で、羊の一群が草をついばむタイガの大空の下で、彼女の暮らしの景色の中に歌われたその旋律は、とても素朴で、とてもあたたかなものでした。目を細め歌う彼女の視線は、いつの景色を見ていたのでしょう。バブーシュカのかすれた歌声の中には、ぼくが今でも旅をする理由である「美しさ」が、ひとつ、ふたつ、とやさしく包まれていました。







いままでの旅を思い返してみると、そのような「美しさ」を意識するきっかけになった、ある経験があります。それは同時に、大学在学時の、就職活動という精神的にとても辛かった時期に、前回の記事で紹介した本『アルケミスト』と共に、こころの大きな支えとなってくれていた存在です。それは、大学4年生になる直前の春休みに、南米を旅して巡り合った Rainbow Gathering という場所で出会った人々との記憶です。今回は、そのお話しをさせてください。


大学四年になる春休み前後といえば、それは死に物狂いで就職活動をしなければいけない時期だというのに、「うーん、ぼくの将来はどうしたものか」と悶々としているばかりでした。本心は、まだまだ旅を続けたいと、就職活動するつもりはありませんでしたが、そのことを言い切るようなこころの強さもありませんでした。しかし、このまま、せっかくの長期休みを無駄にするぐらいなら、と性懲りもなく、今度は、南米へと旅に出かけて行ったのです。それでも、やはり、こころの隅には、いや、こころの大部分を占める割合で、「春休みが終わって、日本に帰ってきたら、就職活動をしなければいけないのかな」などと思いながら、社会のプレッシャーを感じながら、もやもやとしている心境でした。

では、ここからが当時、Rainbow Gathering に行ったすぐ後に、その感動を綴って友人たちに送ったメールです。





「みなさんお久しぶり!


ぼくは、今、ブラジルのサルバドールという街にいます。メールを送ってくれた人、返事をなかなかだせなくてごめんなさい。というのも、この数週間程、山の中でキャンプをしていました。正確には、キャンプというよりも、Rainbow Gathering というものに参加していました。旅をしている仲間のなかには、知っている、行ったことがある、という人もいるかもしれないけど、ぼく自身は、この Rainbow Gathering に来る前日まで、全くもって名前さえも聞いたことがありませんでした。


この Rainbow Gathering へと辿り着いた、ぼくの物語は、長距離バスでの出会いからはじまりました。リオ・デ・ジャネイロから北へ24時間行ったサルバドールという街が、ぼくの目指すところでした。サルバドールで本場のカポエラを見てみたかったのです。しかし、帰りの飛行機はチリのサンティアゴからで、北を目指すとなると、旅の最終目的地からはどんどんと離れてしまうので、行こうかどうかとても悩んだのだけど、どうしてもこちらの方角に惹かれて、ならば飛行機で飛んで行こうと思っていたら(日本円にしたらそれほど高くないので時間の節約のために)、運悪くリオはカーニバルで、どこの旅行代理店も閉っていてチケットが買えなかったのです(追記:今だったら、インターネットで飛行機チケットも個人で買えてしまうところでしょう。まあ、当時はクレジットカードも持っていませんでしたし。Citibank とトラベラーズチェックが懐かしいですね)、それでも行きたくて、バスに乗っていくことにしたのが始まりです。


このサルバドール行きのバスの中で、イスラエル人の女の子2人とオーストリア人の男の子1人のグループに出会いました。彼らと仲良くなってしばらく話していたら、「Rainbow」に行くと言っていました。はじめて耳にするコトバ、「Rainbow ってなんだ」? 何やら、世界中から様々な人々が集まって、一つのおおきな家族となって、ただ、ただ、何もない自然の中で暮らすらしい。新月に始まって、新月に終わる、とのこと。まるで映画の「The Beach」みたいじゃないか! 彼らは「一緒に来なよ」、と誘ってくれました。


今までのぼくの旅は、移動ばっかりしていて、「もの」はいっぱい見ているけど、表面上の事で終わってしまっているんじゃないかと、自分の旅の仕方に疑問を感じていたところでした。もっと、同じ場所にとどまり、同じ人たちと長く一緒に時間を過ごすことによって、はじめて発見できる事もあるんじゃないか、と思っていました。そうした思いから、Rainbow に彼らと一緒に行くことは、ぼくが、どうしても恥ずかしくてノックすることができなかったドアを一緒に開けてくれる手を、目の前に差し出されているような気分でもありました。しかし、同時に、旅の行程を変更してしまうこと、さらには、ドアの向こうに未知なる世界が開かれることへの不安もあり、しばし、ためらいました。けど、よくよく考えると、北に行こうと決めて、飛行機に乗れなくて、バスに乗って、彼らに出会い、彼らがぼくのことを気に入ってくれて、そして、「一緒に行こう」と誘ってくれた、この一連の出来事。それは、なんだか、ただの偶然ではないと、感じたのです。これは、行くことになっていたんだな、と思いました。そして、Rainbow に行くことに決めました。さまざまな気持ちを携えて、ぼくの心臓はドキドキと、暗がりのバスの車内の中に響いてしまわないかと心配なぐらいに、鼓動していました。


日が昇り始めた頃、ぼくたちは、まったくの片田舎の小さなバス停で、途中下車をしました。」





今、振り返ってみれば、朝焼けにバスを降りたこの瞬間は、ぼくにとって人生の行き先を、直感の通りに選び取り、進んだ、瞬間だったのです(もちろん、それまでの人生でも多くの選択をして生きてきましたが、この時ほど、鮮やかに、その場で、瞬発的に、直感に従って、選択肢を変える、という経験はしたことがありませんでした)。この先に待ち構えていた経験のことを思えば、それは、まさに人生の決定的なターニングポイントだったのです。

当時のメールにもあるように、それまでのぼくの旅は、「大学の長期休み」という限られた時間の中で、あらかじめ、ある程度の行き先や、やりたいことのリストを作成し、帰りの飛行機の日付までに、そのリスト項目をできるだけ取りこぼさないことを念頭においた旅でした。気ままな一人旅といっても、そういった意味では固定観念に囚われた旅だったといえるでしょう。毎回の旅は、若さゆえの欲張りな項目数の多さでしたので(項目にチェックが付いた分だけ、日本に帰ってから、友人知人たちにできる自慢話の数も増える、と思っていましたし)、それゆえの立ち止まることのできぬ、行く先の変更の効かぬ、一直線に突き抜けていく旅だったのでしょう。しかし、ブラジルのバスのなかで起こった出来事は、目の前に差し出されたもう一つの選択肢に、こころが大きく反応し、頭の中の「リストに従って行動する」という声を無視して、もう一つの声に従った瞬間だったのです。慣れ親しんだ一直線に進んでいく慣性の法則から、抜け出すことを学んだ瞬間だったのです。





「長距離バスを降りた後は、ローカルバスを2本乗り継いで、地元の人のジープをヒッチハイクして山の麓まで連れて行ってもらい、そこからおおきなリュックを担いだまま山をひたすら歩いて登り、日が陰り一番星が輝き出した頃、その薄暗がりの空を背景に人々のシルエットが映し出されているのを見つけました。その人々の輪の中心には、火が焚かれていました。「Welcome Home !」と、その輪から声がこだましていました。ぼくたちは、歩み寄ってきてくれた人たちとハグを重ね、そのままその輪に加わり、火を囲み座りました。ついに、Raibow Gathering へと辿り着いたのです。

到着した次の日の朝、辺りを散策してみると、奇麗な川があり、川原は見事なビーチになっていました。ここでは、みんなが、全裸になって泳いていたことには、はじめのうちはどうしてもなれなかったのですが、いざ素っ裸で泳いでみると、それは気持ちの良いものです(なかには、一日中、全裸でいる人もいましたが)。奥に沢を進んでいくと、川幅が広がり、泳ぐのに最高な大きなプールになっている場所がありました。川原には、キラキラと、クリスタルがいっぱい落ちていました。


ぼくたちが着いたばかりの頃は、メイン・サークルの輪は、約50人ほどの小さなものでした。その輪は、満月に向かって成長していく月齢とともに、どんどんと大きくなっていきました。一日に2回の食事は、その時ごとに、任意で集まった人々によって作られました。キッチンに集まるみんなは、自発的であるからに、いつだって、とても楽しそうに料理していました。Rainbow Gathering は平和を祈る集いでもあるので、酒、肉は暗黙の了解でなしとなっていました。(これが、ぼくにとって、人生ではじめてのベジタリアン生活を過ごす経験、となったわけです)。食事の前には、みんなが一つの輪となって手をつなぎ、黙祷を捧げました。食事が終わると、楽団と一緒にメイン・サークルを廻るマジックハットに、食費のためのドネーションを募りました。ドネーションは、いれたい人は入れるし、ない人はまた次ぎの機会。そう、ここでは、すべてのことが、均一的な決まったルールではなく、ひとりひとりに見合った任意の意思によって委ねられていました。


夕食が終わると、さらなる薪がメイン・ファイヤーに焚べられ、音楽が鳴り始めるのです。ジャンべにディジュリドゥ、ギター、笛、タンバリン、などなど、各々が持ってきた世界中の楽器です。見たこともない楽器もいっぱいありました。そして、火を囲んで感情の赴くままに踊る! これが、生の音楽か! 打ち震えるような思いでした。生の音が、体の中で響いていました! 音楽が鳴っている一方で、ファイヤーを使ったダンスに、ジャグリングが始まる日もありました。


音楽にしろ、絵にしろ、ダンスにしろ、アクセサリー作りにしろ、ジャグリングにしろ、それはもう、すごい人たちが、たくさんいました(南米の人は、アルテサニアと呼ばれるアクセサリーを作って売って旅をしている旅人や、 ジャグリングや音楽をストリートでやってお金を稼ぎながら旅をしている旅人が多かったです。その技術の、なんとも素晴らしいこと!)。この人たちは、ぼくがいままで接したことがなかった種類の旅人だったのです。旅先のどんな場所でも自分を表現していく術を持った、自発的な旅人です。旅とは、何か新しいものを吸収していくだけの受動的な場所ではなく、自分の内からの輝きを表現していくための場所でもあることを知りました。ぼくは、こんな人々と接していくうちに、自分も何か表現できる手段が欲しいと、強く感じるようになっていました……。


広大な自然の中には、はじめの頃は、みんなが集まるメイン・サークルと簡素なキッチン、それに、共同トイレが作られているぐらいのものでした。トイレといっても、木陰に、穴が掘られているだけのものですが。そして、大自然の中で、各々がテントを張って暮らしていました。中には洞窟を見つけて、そこに暮らしている人たちもいました。だんだんと、何もない所から人の住む場所に成長していく様子を目にするのは、実に面白かったです。人の数が増えるにつれて、テントも増えて、次第にテントで構成された集落のようなものが出来はじめました。「あそこのテント村には、ブラジル人の子たちが集まっていて、地元のお菓子を食べさしてもらえるよ」とか、「あそこのテント村には、アルテサニアが集まっていて、いろいろな技術を教えてもらえるよ」といった具合に、集落ごとに個性が生まれてきたのです。集落ができれば、その集落と集落との間を人々が行き交い、道が生まれました。山の草原には、毎日、新しい道を見つけることができました。人の数はどんどんと増えていき、キッチンを大きくしなければいけなくなりました。そうすると、気づけば、枝で組んでたくさんの大きな調理器具を干せる皿洗い場ができあがり、川原のすぐ側には、お茶が飲めるチャイ・ショップができました。ある時は、「ベーカリーができた」というニュースが流れてきたので、さっそく、見に行ってみると、川から石と泥を集めて作ったカマドからもくもくと煙が上がっていました。そこでは、パンやケーキ、そしてピザが焼き上がるのをこころ待ちに、いつも音楽が奏でられていました。小さな子供たちもいっぱい居たので、子どもたちが集まって遊べる場所も設けられました。そして、さまざまなワークショップも開かれました。ヨガ、メディテーション、マヤカレンダー、ジャンべのセッション、指圧、カポエラ、世界情勢についての話し合い、などなど。





面白いのは、ここでは、時計の指し示すところの時刻という観念がなかったので、待ち合わせは、「あの木の上に太陽が昇る頃に、ここでみんなで集まって、ヨガをしましょう」といった具合だったのです。瞑想の集いが朝早くにあると聞いたので、「いつ、どこで?」と訊いてみれば、「朝日が見えるあの丘で、朝日が昇るその頃だよ」、といった返答です。「太陽がずいぶんと高くなってきたから、そろそろ昼食どきかね?」と、太陽の動きは、確かに、ぼくたちに一日の時間の流れを伝えてくれていました。そして、月は、日めくりカレンダーのごとく、過ぎ去っていく日ごとの時間の経過を伝えてくれていました。新月から始まった集い、膨らんでいく月齢の経過は、全くもって電気の明かりが届かぬ開かれた山の上での暮らしに、確かな光りを注いでいました。夜が来るたびに、明るくなっていくその輝き。満月の頃には、月光の下で、本を読めることにはびっくりしました。そして、ここに集うぼくたちのエネルギーも、満月のその日に向かって、日に日に増していくのを感じるのでした。


そんな日々のなか、人々の数の成長と共に、メイン・サークルも、どんどんと大きくなっていきました。まさに、そこは、広場、という機能が宿り始めたのです。人は集い、お話しをしたり、サッカーしたり、ジャグリングをしたりと憩いの場になりました。時には、人々は、旅の不要な所有物や、自分で作ったアクセサリーや絵などのアートを、布を広げ並べ、物々交換をする商業の場(お金のやり取りもしない、ということも暗黙の了解になっていました)となりました。ワークショップをして、学びの場でもあったし、みんなで話し合いをする、議会の場でもありました。このようにして、このメイン・サークルは、みんなが一堂に集まって食事をし、歌って、踊って、祈りを捧げる日々のなかで、よりエネルギーに満ちた場に成長していったのです。ただの何もない大きな空間が、さまざまに表情を変えていく様子に、広場という機能の意味を知りました。





ぼくは、洞窟の中で10数個ものディジュリドゥが吹かれるのを聞いて、大・大・大・感動して、そこにいた一人の人に、ぼくも吹けるようになりたいと懇願し、次の日に、何人かで竹を探しに山を歩き、そして、その竹でお手製のディジュリドゥを作ったのです! それはもう嬉しくて、嬉しくて、もう何時でもこのディジュリドゥと一緒にいて、練習をしました。音は鳴らなくても、楽しくてしょうがなかったのです。そこには、このディジュリドゥは自分で作ったんだ、という充実感も含まれていました。ここは、日中日差しがとても強いので、教えてもらいながらココナッツの葉で帽子も作りました(さまざまなことを教えてくれる先生が、周りにたくさんいたわけです)。Rainbow での滞在は、自分の手でものを作ることの喜びを、知る機会でもありました。ものつくりの素材は、辺りを見回したら手にはいる身近な自然のものだということ。そのことも、なんだか、いままでに味わったことのない喜びでありました。いつか、ぼくも、川原の石や泥などを集めて、ピザやパンを焼けるようなオーブンを作れるようになれるでしょうか。


そして巡ってきた、満月の夜。場のエネルギーは、最高潮に達し、盛大に、音楽や踊りが繰り広げられました。 その翌々日には、山の麓の村に降りていき、地元の人たちの理解に感謝を込めて、さまざまなパフォーマンスを街の広場で行ないました。地元の人々と、Rainbow に集まった世界中の人々が織り交ざり、人々のこころからこころへと、虹のアーチが架かりました。


そして、ぼくは、Rainbow を離れる決意をしました。これ以上ないぐらいに心残りではありましたが、帰国の飛行機の関係で、ここを離れなければいけなかったのです。本当に素晴らしい場であり、本当に美しい人たちばかりでした。様々なことを感じ、学びました。深い所まで自分をさらけ出し、理解し、理解してもらえるファミリーだったのです。


ぼくが Rainbow を出たときには、その虹色の家族は、約1000人、44か国の人々でした。」







Rainbow Gathering で出会った人々は、一見、風変わりな人たちばかりでしたが、自分の好きなことばかりをやって生きている人たちでした。そんな人たちは、みんながみんな、キラキラと、とても楽しそうであり、魅力的だったのです。それなら、ぼくも好きなことやっていけば、楽しく生きていけるじゃん!と、単純にそう思ってしまったのです。そうしたら、就職活動のもやもやも晴れて、「うん、ぼくも、こっちの生き方の方がいいや」と、なんだか、とてもすっきりした気分になりました。それに、文明の全くない大自然の中でいっときを過ごした、ということも大きかった気がします。こんなにいきいきとした、生命に溢れた大地があるというのに、なぜ、ぼくは、東京の都会の中、目に見えない、なんだかよくわからない社会のプレッシャーの下で、クヨクヨと毎日を過ごさなければいけないのだろうと、思いました。そんな楽観的な視点が生まれたことによって、肩の力が抜け、より自由に世界を飛んでいける気持ちになりました。


1年後、晴れて大学を卒業したぼくは、再び、Rainbow Gathering を目指して、2004年の World Gathering が行われたコスタリカへと向かいました。そこで、ブラジルの Rainbow Gathering で出会った仲間たちと再会し、馬旅へと出発するのでした。





冒頭に、「そのような「美しさ」を意識するようになったきっかけである」と書きましたが、当時は、ただ、ただ、感動というよりも、まさに衝撃的な出来事でしたので、いままで瞑っていた目を見開かされたような気分でした。新たに開いたその目で、この世界に再び焦点を合わせていくのには、いっときの時間が必要でした。それが、ぼくにとっての、その後の旅の時間だったのです。今、こうして、Rainbow Gathering での記憶を思い返してみれば、あの時に、「美しさ」の種は蒔かれ、その後の旅の経験は確かな栄養となり、今ではその存在を自覚できるほどに、ぼくのこころのうちに大きく育っているのだな、と思うのです。


当時の友人たちに宛てたメールに書かれている、「自分も何か表現できる手段が欲しいと、強く感じるようになった」という言葉は、20代始めの頃の自身の心情を、痛切なまでに現しています。Rainbow Gathering の場で生まれてきた、この新たな感情は、とても自発的なものでした。何よりも素晴らしかったのは、そうした気持ちのきっかけとなったインスピレーションは、一緒にいる人々の姿から受けたものだった、ということです。こうした人々と、長期間、寝食を共に過ごしたおかげで、日本ではなかなか踏み切れずにいた学びの第一歩は、気づけば、とても自然に踏み出されていました。日本では、あんなにも、その一歩が踏み切れずに、もがいていたというのに。そして、心に焼き付けられた人々のその姿は、日本に戻った後も、ぼくにインスピレーションを与え続けてくれていたのです。


前回の記事に書いたように、それまでのぼくの日本での生活において、興味の対象とリンクできる場所は、雑誌やインターネットなどの間接的な媒体がほとんどでした。しかし旅先では、こうした存在に、等身大で、リアルに、触れられるチャンスがありました。そうした意味で、旅はよき「学び」の場だったのです。それは、「学び」にとって、そこにいる人々を含めた環境が、とても重要である、ということを意味しています。「学び」にもいろいろな手段があると思いますが、アカデミックな場所での「学び」とは別に、自身の置かれた自然な環境からの「学び」というものもあると思います。例えば、日常の「暮らし」の中で、大人たちが楽しそうに日々、音楽を奏で歌っていれば、それは子供達にとって、まるでネイティブな言語を身につけていくように、とても自然な学びとなっていくことでしょう。周りの大人たちの存在は、子供達にとって、とても重要だと思います。ぼくも、Rainbow Gathering や、その後の旅で出会った学び多き人々の存在のおかげで、今の生活の糧にもつながっていくような、音楽や料理、靴作りといった、自己表現の手段を学んでいきました。結果、そうした自己表現のおかげで、お金を稼ぎながら旅を続けていくことができましたし、それは、日本に帰ってきてからの生活の糧にもなっています。そして、それは、「暮らし」全般を創造することにも繫がってきています。ぼくは、大学卒業後、日本で、いわゆる企業に就職をすることを選びませんでしたが、生きていくための術を身につけるという意味では、旅先こそぼくが選んだ場所だったのです。


ここまで話しを進めてくると、ついつい、「旅先で、有意義な技術を学んだ」という結果に意識がズレてしまいますが、ぼくが Rainbow の人々から受けたインスピレーションの源泉は、表現することの「喜び」です。彼らは、こころの底からの「喜び」を、歌い、奏でていました。ぼくには、それまで、そんな大人たちが周りにいませんでしたし、そんな音楽に触れたことはありませんでした。ぼくが表現したいと思う気持ちも、この感動から始まっていますし、今でも、そうでありたいと願っています。


それまでの人生で随分と模索をし、随分と歳をとってからのスタートになってしまいましたが、ついに、ぼくにとっての、こころからの「学び」が始まったのです。そのような年齢となってからでは、ネイティブな学びとはならないかもしれませんし、そのことに引け目を感じることもありますが、この「学びたい気持ち」はとても自発的であるからに、そこから生まれてくる表現も、ただ、ただ、こころからの「喜び」を伝えられる自然なものであればと、願います。ぼくにとっては、ただ、ただ、それだけの気持ちで、充分です。そんなことを、旅先のTUVAで、音楽を学ぶ日々と、バブーシュカの歌声に思いました。





——巡礼となりて——



その道は、我がこころの内から始まるものだった

こころの声を聞いたから


その道は、外へ、外へと、拡散していくものだった

好奇心という旅の先導者に出会ったのだ


巡り、巡り、

辿り着いた、その景色


その道は、収縮し、我が身の内へと帰っていくものだった

ついに、真実と出会う場所を見つけのだ


あぁ、

いま、ここが、聖地であることを知る


そして、

日々の営みは、喜びとなり、この星の創造となる





プロフィール


佐々琢哉(ささ・たくや) 1979年、東京生まれ。世界60カ国以上の旅の暮らしから、料理、音楽、靴づくりなど、さまざま なことを学ぶ。 2013年より、高知県四万十川のほとり、だんだん畑の上に建つ古民家に移住し、より土地に根ざした自給自足を志す暮らしをはじめる。全国各地で不定期にローフードレストラン「TABI食堂」 や音楽会を開催。TABIは、中米を1年間一緒に旅した馬の名前。 2016年にローフードのレシピと旅のエッセイ本『ささたくやサラダの本』(エムエム・ブックス)を刊行。



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