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  • 執筆者の写真Saudade Books

Walkabout #8 沈黙の中で—ニュージーランド・ケリケリ(中編)(浅野佳代)

更新日:2019年10月19日



旅とヴィパッサナー瞑想の実践を通じて学んできたブッダの教え、自然の教えをテーマにしたエッセイです。



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ニュージーランドでの滞在


ニュージーランドのベイオブアイランズ空港に着いたのは、午後の日差しが明るく輝く頃だった。平屋建ての小さな空港には、数か月前に神戸で出会った女性(Aさん)が出迎えに来てくれていた。日本の小さな離島を飛び出して、遠路はるばる異国の小さな町での再会となった。


参加者は私を含めて二人。宿泊先のニュージーランド人のオーナーが車で送迎してくれたので、まずはスーパーへと買い出しに向かった。車中では前の座席に座っているオーナーとAさんがさりげなく会話をしていた。英語で何を話しているかはよくわからなかったが、ポン、ポンと、キャッチボールのように軽やかに言葉がやりとりされる。どこにも無理がなく、緊張がなく、まして相手の気を引こうとか、わかってほしいという余計な気持ちを乗せることのない、シンプルな会話が耳に心地よかった。


町のスーパーでは、リトリート中に自炊するための食材を調達することとなった。ニュージーランドでの滞在は、わずか一週間足らずの予定だったが、私の荷物はというと、1か月はゆうに過ごせるサイズの大きなスーツケースに、大きなカバン。いったいどれほどたくさんのものを抱え、執着していたことだろう。スーパーでも、足りなくなってはいけないからと、必要以上にあれこれと買い込んでいた。車に荷物を載せるときにそのことに気がついて、そんな自分が恥ずかしくなった。


スーパーを後にして宿に向かう道すがら、車窓から見えたケリケリの町は、数年前に住んでいた神奈川の海辺の町にもどこか似ていた。こじんまりしていて、自然が豊かで、近くには入江もあってヨットが停泊している。今回の滞在では足を運べなかったが、週末にはオーガニックマーケットが開催されたり、海辺ではイルカウォッチングを楽しむこともできるという。別荘地のようなゆったりとした雰囲気に包まれていた。





宿泊先は、有機農法のパーマカルチャーを実践しているご夫婦二人が営む宿で、広い敷地内にかわいらしいコテージがいくつか点在し、そのまわりには色々な作物が成っている畑があった。その畑は収穫だけを目的としたものではなく、水も光も風も土も人も、それぞれが互いに調和し、循環するように作られており、コテージから畑へ、畑から隣接している公園へと、ゆるやかにつながっていた。


私たちはオーナーから許可を得て、滞在中はその畑から好きなものを採って良いことになっていた。レタスや水菜など、ちょうど食べられそうな野菜を食べられるぶんだけ手でつまんで、それを使って部屋のキッチンで料理をするのが日課となった。いろいろな場所に色々な野菜が植えられていて、その中からその日に収穫するのにちょうどよいものを探すのは、何か宝物を見つけるかのような、子供の頃のようなわくわくした気持ちになるのだった。





はじめてのリトリート


リトリートが始まる前に、「毎日のスケジュールを壁に貼っておきます」と、主催者のAさんから詳しいスケジュールが知らされた。午前中と午後は、1時間の瞑想が数回。そして夜にはサットサン(真実のわかちあい)があり、気づいたことや質問などのシェアリングが行われる。また、3泊4日ほどのリトリート中は沈黙が守られる。食事を作るときも食べるときも、もちろん沈黙を守る。参加者同士でお互いに話はできないが、Aさんに質問や要望があればいつでも声をかけることができるようになっていた。


私にとっては、初めてのニュージーランドで初めてのリトリート。スケジュールは瞑想がメインであることは事前にわかっていたものの、それまでに瞑想を本格的にやったことがなかったため、1回に1時間の瞑想も、滞在中は沈黙を守ることも、すべてが初めての経験だった。それだからか、そのスケジュールを見たとき、とたんに襟を正すような緊張感が生まれた。私はニュージーランドに遊びに来たわけではないのだ。瞑想し、内省するためにここに来たのだと、その時になってようやく明確な目的を自覚した。





そしてリトリートは始まった。参加者には、ひとり一軒のコテージがあてがわれ、瞑想やサットサンは、マッサージトリートメントに使われている離れの小屋で行われた。周囲にあるのは、手がかけられた畑と、ケリケリの豊かな自然と、ゆったりとした空間と、どこまでも続く空だけだった。すべてがいま、リトリートに参加する私たちのために与えられ、用意され、授けられていた。日本の離島にいたとき、同じように自然豊かな環境にいたというのに、そこではむしろ自然の厳しさや孤独感を感じることが多かったが、ここではまるで、「何の心配もしなくていいよ」と言われているかのような安心感を覚えた。


その日の夜のサットサンで「ここは日本からはとても遠い場所にありますが、この距離が大事なのです。日常とはいったん離れた場所にあえて身をおくことによって、より集中して自分自身に向き合うことになるからです」とAさんがおっしゃった。確かにそうだった。今のわたしにとって離島での生活が苦しく感じるのも、あまりにも人と人との距離感が近すぎることに一因があった。もしも今回、日本国内でリトリートが開催されていたとしたら、中途半端に距離が近いせいで、家族や島のことが気になってしまい、瞑想にも集中できなかったことだろう。なんせ出発の日に大きなスーツケースを抱えて一人きりで船に乗るのさえ躊躇してしまうほどなのだ。小さな島では、どこかへ旅行に行くことが必ず誰かにわかってしまう。まして子供や夫を置いて主婦が一人きりでスーツケーツを抱えて島を出るとなると、不審に思われるかもしれない。何よりもそういうことをいちいち気にして行動している自分がとても不自由だった。だからこそ、日本から遠く離れた場所で静かに過ごせることがとてもありがたかった。



心をいまここに戻す時間の尊さ


1日目の夜、広いコテージの部屋でなかなか眠りにつけず、旅行用に持参したキャンドルに火を灯してベッドの上で瞑想することにした。しばらくじっと座っていると、ふいに今いる場所の圧倒的な静けさに包まれた。その静けさは深く、一点に集中するかのような密度を持っていた。その静けさに触れたとき、思わず涙がこみあげてきた。


今この瞬間、すべてが守られ、恵まれた場所に私はいる。いったいこれまでの日々の生活のなかで、こんなふうに時間を過ごしたことがあっただろうか。たったひとりで静かにゆったりと、心をいまここに戻すその時間は、秒や分で数える時間とは全然違う。同じ1秒、1分、1時間でも、その密度、質がまるで違うのだ。それは秒針では計ることのできない豊かさにあふれていて、いまここでしか感じることのできない、「尊さ」に満ちていた。この尊いものをこれ以上見失わずに生きていこう。その夜、一人静かに心に誓った。





朝食と昼食は、もう一人の参加者の部屋にキッチンがついているので、時間になったらその部屋に行ってキッチンを借り、自分の部屋に持ち帰って食べることになっていた。沈黙を守るため、私が料理を作っている間、その部屋の人はどこかで待機していることになる。それはあらかじめリトリートで決められていることであったが、キッチンのある部屋が自分の部屋でないことから、いつも早く作らなければという焦りを感じていた。さっさと作ってさっさと出て行けるよう、時間を優先して適当に食事を作っている自分がいた。


ある時食事を作っている最中に、「部屋を使わせてもらっているのに、待たせてしまってはいけない。」と、どこからかそんな声が聞こえて来るようだった。次いで罪悪感が心に浮かんだ。その罪悪感はとても馴染みのあるものだった。それはこれまでに何度も出会ったことのある、私自身の頭の中の声でもあった。島の生活でもこの声にしばし悩まされていて、その頃がいちばんひどかったように思う。いつもならその声に圧倒されて、自分を責めることが常だったのだが、この時はなぜか違っていた。いつものような声が生まれたものの、その声はあまりにもケリケリの風景に似つかわしくないように感じたのだ。なぜなら、今キッチンの窓から見える畑や、花や木々には、昨晩に感じたような安らぎと、温かさと、豊かさがどこもかしこも満ち溢れていたから。


「この罪悪感はここにはまったくふさわしくない。」そう自覚した瞬間、一度生まれたはずの罪の感覚は、ふたたび元いた場所へと瞬く間に去っていった。そしてそれ以上、私を悩ませることはなかった。そのことに誰よりも私自身が驚いた。



沈黙の教えを受け取る


毎回1時間の瞑想は、初心者の私にとって眠気との戦いだった。今度こそ起きていようと思いながらも、気づくと頭がうなだれている。思いつめて夜のサットサンで「どうしても瞑想中に眠ってしまうのですが」とAさんに相談したところ、「わたしも以前、経験を積んでおられる瞑想者の人たちと一緒に座る機会には、眠ってしまうことがありました」と励ましてくれた。Aさんはいつも良いとも悪いとも言わずに、ただ経験をわかちあってくれるのだった。すると答えの内容が今の自分にはわからないことであっても、それはそれで良いのだと思えてくる。そのおかげで必要以上に自分を責めることなく、またここからやり直そうと心を改めることができた。


結局、今回のリトリートでは、瞑想の時間に一度も眠ることなく1時間を過ごせることはなかった。けれども、日本に帰ってずっと後になってから気づいたことは、瞑想しながら私がうとうとと眠っているあいだにも、確かに受け取っているものがあったということ。それは言葉のやりとりを超えた受け渡しであり、沈黙の教えでもあった。数日間のリトリートのあいだ、沈黙を通じてわたしは確かに何かを受け取っていたのだ。もしも意識がはっきりとしていたら、きっと受け取れなかったことだろう。まだ出会って間もないAさんと外国でのリトリートで、瞑想も初めての経験で、身体も心も硬く緊張しているままの状態では、思考が抵抗したり、疑いが頭をもたげてくることがあるからだ。


幸いにも眠っていて緊張がほぐれ、意識が無防備であったことによってかえって身体はよりオープンに、より深いレベルで沈黙の教えをしっかりと受け取っていたことを、ずっと後になって悟った。後に私はブッダの実践したヴィパッサナー瞑想と出会うことになるのだが、このリトリートで受け取ったものが、まさしくヴィパッサナー瞑想で授けられる「ダンマ(真理の法)」へとつながる、貴重な鍵となった。


(つづく)



プロフィール

浅野佳代(あさの・かよ) 瞑想と文筆。サウダージ・ブックス代表。



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