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執筆者の写真Saudade Books

Walkabout #6 ウェブ・サヤドーの智慧のことば(浅野佳代)

更新日:2019年10月19日



旅とヴィパッサナー瞑想の実践を通じて学んできたブッダの教え、自然の教えをテーマにしたエッセイです。



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昨2018年の12月に旅したミャンマーで、私はある偉大な瞑想者の足跡を辿った。ミャンマー北部の小さな村に生まれ、ブッダの教えに出会って僧侶となり、ヴィパッサナー瞑想を熱心に実践したのちに涅槃に至ったとされるウェブ・サヤドー(1896〜1977)である。


ウェブ・サヤドーの存在は日本ではあまり知られておらず、私もミャンマーに行くまでは名前を知っているくらいだった。けれども、ウェブ・サヤドーの生まれ故郷や入滅した場所などを実際に訪ねて、彼自身が学び、伝えたことを肌で感じることよって、しだいに深い敬意と親しみを持つようになった。


今では私にとって、ウェブ・サヤドーは雲の上のようなどこか遠いところにいる存在ではなく、ヴィパッサナー瞑想を真に実践した人、ブッダの叡智を純粋に守りたゆみなく教え続けた人、そしてたった今も教え続けている人として、いつもそばで見守ってくれているかのような、近しい存在となった。








ミャンマーのウェブ僧院でいただいた英語の小さなブックレットによると、ウェブ・サヤドーは、1927年から1977年まで(ビルマ暦1289〜1339)の50年間、一日たりとも休むことなく、およそ500名の弟子たちにヴィパッサナー瞑想の実践を教えたという。


「ウェブ・サヤドーの説教に関して特筆すべき点は、同じ順番で繰り返すことである。彼は弟子や聴衆たちに戒律を授けることからはじめ、そしてかなり長いものとなる導入の話しをつづける。しかし説教の目的である大事な箇所に近づくと、言い回しや表現をほとんど一語も変えることなく、つねに同じ語り方を守るのだった」(『ブッダ・ダンマの本質』より)


時代の変化とともに、仏教発祥地のインドではヴィパッサナー瞑想の叡智が衰退していったにもかかわらず、その教えが純粋なままミャンマーの地に残り、脈々と受け継がれてきたのは驚くべきことであり、その後もウェブ・サヤドーや後継者たちの尽力によって、ミャンマーにとどまらず、再びインドへ、さらにインドから世界中へと広がっていった。


彼らがブッダの叡智に何も付け足すことなく、何も省くことなく、その教えのとおりに瞑想を実践してきたおかげで、今もこうして多くの人たちがその恩恵を受けている。そしてその教えの本質は、ブッダの時代と変わらず、どの国のどんな年代の、どんな立場の人にも実践できるような、普遍的なものである。


ブッダの入滅後に編纂された、難解な経典を読み解くことは瞑想の助けにはなるが、ブッダやウェブ・サヤドーたちが繰り返し伝えていたことは、いたってシンプルなものだった。それは、日々瞑想の実践を続けること、瞬間、瞬間の気づきを保ち続けること、そして、いま自己のうちに起こっている事実に明晰であること、などである。


一見難しいことのようにも思えるこれらの教えは、ヴィパッサナー瞑想を実践していけばいくほどに、自然の摂理に沿ったものであるということが、おのずと見えてくる。


例えば、「私」というこの存在ひとつをとっても、それはRupa(物質)とNama(精神)の因果関係によって現象しているということを彼らは説いている(詳しくは以下のウェブ・サヤドーの講話をお読みください)。そして、その事実を頭の理解ではなく「実際に確かめなさい」、と励まし続ける。


「私」や「魂」といったものの正体とは何か。その因果関係がはっきりしてくると、しだいに身体と心は緊張から解放されて、生まれては消える現象のまっただ中にいながら、安らぎ、くつろぐことができる。


その真実を知った人、すなわち、もうこれ以上調べることがないほどに、あらゆる現象を観察し尽くした人が、「目覚めた人」であるブッダであり、ウェブ・サヤドーなのだった。

そして幸運にも、真実を知り目覚めた人たちの「叡智」が今もまだかろうじて遺されている。時代の変化とともに、その叡智もいつか地球上から失われていく可能性もあるだろう。今、もしその教えに触れることができるのならば、私はそれをそのままに受けとめて、素直に耳を傾けたいと思う。


「ウェブ・サヤドーのことばの意義は、Magga nana、phala nana、そして涅槃という究極の悟りの成就のための実践として表現されたシンプルなメッセージとみなされる時、もっとも深く理解されるであろう。まさにこの理由から、シンプルでありながら大変に意義深いウェブ・サヤドーのメッセージは繰り返し印刷出版され、サヤドーが説教をおこなったすべての土地で、これまで数万もの冊子が布施を行う者によって配布されてきたのである」


ミャンマーで出会ったブックレットの解説にもあるように、ウェブ・サヤドーの講話は、明快、簡潔でありながらも力強い励ましに満ちている。そのエッセンスが少しでも伝わることを願って、専門的な用語やパーリ語の単語もあえてそのままに、講話の一部を日本語に訳し、ここで紹介したいと思う。





智慧のことば


ウェブ・サヤドー



戒律の誓いをしたら、それを守りなさい。戒律を守りさえすれば、望みは叶えられるでしょう。それは今ここで、そして未来においても、あなたに幸福をもたらすでしょう。


現世において、と同時に輪廻のなかでの来世において、平安と幸福をもたらすものは、ブッダのことばをおいてほかにありません。ブッダのことばは、知恵の三つの籠(かご)であるパーリ仏典に具体的に表現されています。パーリ仏典は膨大な著作ですから、わたしたちはまずその本質、エッセンスを理解しましょう。パーリ仏典の本質とは、ダンマ(悟りの必要条件)の37要素です。ダンマの本質とは高貴な悟りの道です。高貴な悟りの道の本質と三学の本質は、唯一無二のダンマです。


三学とは戒学(高い道徳性)、定学(より高い心性)、そして慧学(より高い知恵)です。

人がRupa(物質)とNama(精神)に気づきを保ち続ける時、そこにはいかなる物理的な暴力も言語的な暴力もありません。これが戒学と呼ばれるものです。


戒学が進むと、精神は集中し、静かになります。これが定学と呼ばれるものです。


定学(サマーディ、精神集中)が進むと、人はRupaとNamaの真の本性をめぐる洞察を得ます。ぱっと輝く光明のなかで、RupaとNamaは何十億回もの絶え間ない転生を経験します。この永遠につづく転生のプロセスは、いかなる神(Deva)もいかなるブラフマン(Brahma)もコントロールできないものです。輪廻と解脱のプロセスをめぐる洞察を得ることが、慧学です。


誰でもはっきりとわかることは、呼吸のプロセスでしょう。鼻は身体器官の突出した部分で、吐く空気も吸う空気もつねに鼻孔にふれます。


鼻孔は鼻という器官のなかでももっとも感じやすい部分で、吐く空気や吸う空気は出入りするたびにそこにふれます。別の言葉でいえば、風のエレメント、すなわち「動」というエレメントが鼻孔と接触し、感覚を引き起こしているのです。


風のエレメントも鼻孔も共にRupaで、両者の接触と感覚を知るのがNamaです。何人(なんぴと)もRupaとNamaが何であるのか、問うてはなりません。鼻孔に気づきを保ち続けなさい。人は吸う空気の感覚を知っています。人は吐く空気の感覚を知っています。吸う空気と吐く空気を感じつづける状態を保てば、貪(貪り)、瞋(怒り)、痴(無知)が生起することはありません。貪(貪り)、瞋(怒り)、痴(無知)の炎は、結果として生じる心の静寂と平安によって鎮められます。


人は、この接触よりも前に感覚を得ることはできません。接触が消えてしまったときには、もはや感覚を得ることはないのです。現実に起こる接触に、まず気づかなければならないのです。これは、現在の真っただ中における即時的現前と呼ばれるものです。


連続する現在に、気づきを保ち続けなさい。24時間途切れることのない現在への気づきを保ち続ければ、結果は明らかになります。もし、連続するいかなる瞬間にも生起するものに気づきを保ち続けることができないなら、光のひらめきのなかで起こることへの気づきを逃がし、いつまでも満たされないままです。


もし、呼吸と鼻孔の接触に気づきを保ち続ければ、Rupa、そしてNama以外には何も存在しないことを悟るでしょう。RupaとNamaのほかに、たとえば私、彼、あなたのような存在はないし、自我も男も女もないのです。ブッダの教えは真実であり、しかも唯一無二の真実であることを、おのずから知ることになるでしょう。誰かに問う必要はありません。風のエレメントと鼻という器官が接触することへの気づきは、「私」とか「エゴ」とか「魂」といわれるようなものは存在しない、という悟りを生み出します。


この気づきの瞬間において、智慧、すなわち理解や洞察は明晰になります。これがサンマーディッティ、すなわち正しい理解、「正見」と呼ばれます。NamaとRupaのほかにいかなるものも存在しない。これがNama-Rupa-pariccheda-nana、すなわち心とからだをめぐる分析的な洞察と呼ばれるものです。


黙想の絶え間ない実践が、「私」すなわち魂という概念を滅却し、明晰なヴィジョンや智慧を生み出すのです。これは黙想の瞬間からもたらされる賜物です。たいしたことではない、などと考えてはなりません。何もわからなかったし、瞑想のあいだに何も得られなかった、などと考えてはなりません。そのような賜物は、ブッダの教えが存在するあいだ(buddha sasana)にしか得られないのです。瞑想するときは、食べ物のことやほかのさまざまな欲求を忘れなさい。そして、涅槃の悟りに至る洞察の道(magganana phala nana)をゆくことに精進し、励みなさい。





参考文献


『The Essence of Buddha Dhamma by Ven; Web Sayadaw』



プロフィール

浅野佳代(あさの・かよ) 瞑想と文筆。サウダージ・ブックス代表。



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