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  • 執筆者の写真Saudade Books

巡礼となりて #2 弥生 恒常性たる変化 (佐々琢哉)

更新日:2019年10月19日



高知県の四万十山暮らし、ときどき旅。野の中で素朴で質素な営みを願う日々を詩とエッセイでつづります。



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巡礼となりて


その道は、我がこころの内から始まるものだった

こころの声を聞いたから


その道は、外へ、外へと、拡散していくものだった

好奇心という旅の先導者に出会ったのだ


巡り、巡り、

辿り着いた、その景色


その道は、収縮し、我が身の内へと帰っていくものだった

ついに、真実と出会う場所を見つけのだ


あぁ、

いま、ここが、聖地であることを知る


そして、

日々の営みは、喜びとなり、この星の創造となる



ホー・ホケキョ……ホー・ホケキョ


ウグイスは随分と上手にさえずる様になってきた

さえずりとさえずりのあいだの間(ま)がにくい

その間に、空の広さ、止まり木の枝の様子までをも感じられる


キラキラキラ・キラキラキラ


オオイヌフグリの蒼い、小さな、小さな、花々

畑に瞬くその姿は、まるでお天道様の下に輝く、緑の草原の星空のよう

蒼緑の大地を覗き込こみながらも、背中越しの遥か彼方の天体たちを感じるのはどうしてだろう


さて、さて、今月は暮らしのどんな様子を綴っていこうかと、この一か月頭を悩ませていたのに、芸のないことに先月と同じ始まりである。まあ、しょうがない。「ホー・ホケキョ」が先月から引き続き、ぼくのこの一か月のテーマ曲であったし、オオイヌフグリの瞬きが、相も変わらずぼくのこころを躍らせ続けているのだから。それならばと、この二つに続く今月のぼくのこころのテーマ曲、3位、4位〜は何だっただろうと考えてみると楽しくなってくる。


しかし、これは確かなことで、その調べ、その姿というものは、何一つ同じということはなく日々移り変わっていく。そして、日々移り変わっていくことを認識するのは、なかなかに難しいものだ。日常の雑務の中に、ついつい日々を同じことの繰り返しの様に感じてしまう。はたまた、日々の環境に慣れすぎてしまって、そこにあるものたちが、当たり前の様にいつまでもそこにあり続ける様にも錯覚してしまう。しかし、ある瞬間に「ホー・ホケキョ」が「ホー・ホケキョ……ホォオオー・ホケキョ」になる瞬間があって、オオイヌノフグリの瞬きが他の下草たちの緑の雲流に圧倒されているのを発見する瞬間がある。そんな瞬間に、そう、変化を目の当たりにした瞬間にぼくのこころも動かされるようで、新たな感動が生まれる。「(まぁ、いつも同じウグイスのさえずりを聞いているのかわからないけれど、と思いながらも)そうか、そうか、あの子も毎日毎日練習しているものな、上手になったなー。この調子でいけば、もう数日すれば、もっとよい鳴き声になるのだろうか」とか、「お、他の草花の生育も旺盛になってきた、オオイヌノフグリはその勢いにどんな調和を見せていくのだろう」と興味が湧いてくる。興味が湧いてくるというのは、言い換えれば次の「変化」、つまりは物語の続きを楽しみにしているようなもので、また同じ声を聞いたり、同じ場所を通ったときには「さあ、どんな変化をしているのだろう」とワクワクしている自分がいる。こうして、暮らしのいろいろな場所に意識のクリッピングがなされていくと、それはそれは楽しいことだらけに囲まれて日々暮らしている様なものであり、「あっ、あれは、これは」と意識のアンテナがピピピッ、ピピピッとあちらこちらに伸びていって、いてもたってもいられなくなる。意識のクリッピングを施したものでも、その強度は様々であり、なかには次の興味や現実的な日常の実務によって、まるで、あっという間に風にピューと吹き飛ばされてしまうものもあるが(そう、そう、ここ最近は春一番がビュービューとよく吹いているな。このビュービューが月間テーマ曲チャート4、5位ぐらいだろうか)、それらが、自らの手を施して作ったり直した場所や物だと、その意識の根の深度はとてもとても深く、ちょっとやそっとでは吹き飛ばされない。そして、根がしっかりと張ったものは、日々成長していく。その意識の根が張り巡らされた新芽の成長を愛でていくこと、これはこれは大きな喜びである。


そう、つまりは「変化」が喜びを生み出してくれるのだと思う。そんな意味でも、この地球、はたまた宇宙の大きな、大きな、うねりの中で日々変化していく草花や木々といった自然に近い暮らしには、「変化」を感じやすく、喜びが多いのだと思う。自然に「近い」ばかりでなく、自然に「寄り添った」意識レベルまで自分を保てたら、自分もそのうねりの中で心臓が鼓動しているのを感じ、これ以上にない安心を抱くことができる。


変化は自然の常であるから、それは、それは、ありがたいことではないか。




先月の連載記事を編集の方に読んでもらった際に、「毎朝ワクワクしているのですね、それはすごいことですね。世間には、そんな気持ちで電車や、バスに乗って仕事や学校に行く人たちは、なかなか少ないと思いますよ」というコメントをいただいた。そして「どうやって、そんな気持ちで日々を過ごせるのですか」と質問をいただいた。自分でも「そういう風に聞かれると、なんでこんなにワクワクしているのだろう」と思いながら、この一か月を過ごしていたら、上記の様な考察となった。






この様な文脈で暮らしを描写していったときに、その先にさらに起こる現象がある。それは、意識のクリッピングが暮らしのあちらこちらに施され、植物でも物でも独自の成長のうねりや、自身を含めたそこにあるもの同士の親和性が生まれ始めた時に起こる現象だ。夕暮れ時、畑、裏山、家、道具たち、その日に成された仕事の跡を今一度見て回る。そして、夕暮れに消えゆく暮らしの風景の中、心地の良い疲労感とともに無心で佇んでいると、今までの暮らしの旋律のなかに、新たな調べ、その先の共鳴音が鳴り出す予兆を感じることがある。そこにあるものたちそれぞれ独自の成長のうねりによって生まれる共鳴によって、場の振動数は高められ、暮らしの空間に満ちる空気は高まっていく。そして、ある瞬間に出会うのだ。薄明かりが差し始めた朝に起き、前日に仕事が成されたその場所場所を巡る。一晩の時間の経過のうちに、すでにそこに生まれ始めた新たな親和性を目撃し、その場所に神性が宿り始めたことを感じる瞬間。それは、まるで、長年の月日の中、人々の祈りや瞑想によって、神性が宿るまでの場所として設定された、教会や寺院などを訪れた時に、背筋がすっと伸び、静寂がこころの奥深い所に広がっていく様な感覚だ。暮らしの景色の中に、そんな瞬間が立ち現れる空間が内在されていくのを感じる。


一人では辿り着けなかったその場所に、共に暮らす植物、日々使っている物たちに宿る魂との共鳴によって、創り上げていく暮らしの景色


しかし、「変化」は常であり、その景色も過ぎ去り、移り変わっていく

風が吹き、雨が降り、嵐は訪れ、また、澄みやかな青空が広がったり、広がらなかったり


やっと勝ち得たと思った、こころの静けさ

日常の雑務によって、頭の中に、風が吹き、雨が降り、嵐は訪れ……


ビュー・ビュー


……


ホー・ホケキョ


はっ、

その囀りによって、頭の中に吹く春の嵐に、一つの隙間が生まれる


ふぅ〜

静かな気持ちで耳澄ます

あたりのいのちたちへ耳澄ます


ホーホケキョ・ホーホケキョ

キラキラキラ・キラキラキラ


ああ、今日もウグイスは鳴いている

オオイヌフグリが、瞬いている


ふぅ〜

もう一息、ゆっくりと、吐いて、ゆっくりと、吸って、耳澄ます

その恒常性に耳澄ます


ホー・ホケキョ・キラキラキラ

ホー・ホケ・キラ・ケキョ・キラキラ・ケキョ・ケキョ・ケキョ……


わあ、

あたり一帯のいのちたちが共鳴をしているよ





プロフィール


佐々琢哉(ささ・たくや) 1979年、東京生まれ。世界60カ国以上の旅の暮らしから、料理、音楽、靴づくりなど、さまざま なことを学ぶ。 2013年より、高知県四万十川のほとり、だんだん畑の上に建つ古民家に移住し、より土地に根ざした自給自足を志す暮らしをはじめる。全国各地で不定期にローフードレストラン「TABI食堂」 や音楽会を開催。TABIは、中米を1年間一緒に旅した馬の名前。 2016年にローフードのレシピと旅のエッセイ本『ささたくやサラダの本』(エムエム・ブックス)を刊行。



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