旅とヴィパッサナー瞑想の実践を通じて学んできたブッダの教え、自然の教えをテーマにしたエッセイです。
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「ブッダの教えは、すべての人々のためのものである。それは実践的なもので、年齢、人種、宗教の如何にかかわらず、誰でも実際に取り組むことができる。幸福と真実を求めるものであればいかなる者でも、仏道(ブッダの生きた道)をたどるべきであろう。事実、仏道は今日の世界のいたるところで求められ、模範とされている。ウェブ・サヤドーの説く涅槃への最短の道はまったくシンプルで、明快で、わかりやすく、何の困難もなく実行に移すことができる。」
——『ウェブ・サヤドー尊師によるブッダ・ダンマの本質』序文より
サヤ・テッ・ジの生まれ故郷へ
ヤンゴンのインターナショナル・メディテーション・センター(IMC)で10日間の瞑想を終えた私たちは、タクシーを手配してサヤ・テッ・ジ(1873〜1945)の生まれ故郷の村、ダラへと向かった。
IMCを設立したサヤジ・ウ・バ・キンの先生であるサヤ・テッ・ジは、農村の出身ながら瞑想を熱心に実践し、レディ・サヤドー(1846〜1923。膨大な仏教経典の研究や翻訳などを手がけ、ミャンマー中から敬愛されている僧侶)から仏教の三蔵とヴィパッサナー瞑想を学んで、在家の人たちにも自ら教え続けた。私はミャンマーに来るまでサヤ・テッ・ジについてあまり知らなかったが、彼の生い立ちを調べたり、生まれ故郷の村を実際に訪ねることによって、ウ・バ・キンやIMCの素朴で大らかな雰囲気が、サヤ・テッ・ジの教えから受け継がれていることを実感したのだった。
ヤンゴンから車で2時間半ほど、ラングーン川を渡った先に村はあった。あたりは、昔ながらのミャンマーの生活が今も残る、のんびりとした雰囲気にあふれていた。
私たちは村に着くなりさっそく、サヤ・テッ・ジの瞑想センターを見学させてもらうことした。ダラの瞑想センターは、ヤンゴンのIMCと違って、地元の人たちが集うパゴダ(仏塔)と、平屋建ての瞑想ホールや宿泊棟が数棟並んでいるだけの、こじんまりした簡素な作り。けれども、敷地内には木々が植えられていて、風がそよぐたびに木漏れ日がやわらかく差し込み、ゆったりとした時間が流れていた。
見学の後、1時間ほど瞑想してもよいかと訪ねると、施設の人は快く受け入れてくださり、そのうえサヤ・テッ・ジがいつも瞑想していたという小屋に入ることを勧めてくれた。見学のお礼に寄付をすると、「よかったら召し上がりませんか?」と食事のもてなしもしてくださり、ありがたかった。
そういえばミャンマーに来てからというもの、お金をほとんど使っていないことに気がついた。食事や寝る場所や、生活に必要なものは瞑想センターですべて用意されていたから、私たちが個人的にお金を使う機会は、寄付や移動費くらいだった。普段から僧侶や尼僧たちも、彼らが個人でお金を使う機会はあまりなく、やはり生活に必要なものは、村の人たちの布施などによってまかなわれている。
瞑想コース等に参加する人たちはたとえ在家であっても、僧侶と同じように一時的に「出家する」と考えられているため、お金や食べるものや暮らしのことに頭を悩ませることなく、純粋に日々の務め(瞑想)に集中できる環境が与えられる。ミャンマーのようにブッダの徳が大切に受け継がれてきた場所では、出家をする人への敬意と寛容さが今もなお息づいているのだった。
インジンビン村のウェブ僧院
ダラの村を後にした私たちは進路を北にとり、ヤンゴンからバスで12時間かけてマンダレー北部のキンウーという町へと向かった。さらにそこから車で2〜30分のところにある、インジンビンという小さな村にたどり着いた。
ここはウェブ・サヤドー(1896〜1977)という僧侶が生まれ、入滅した村として知られている。ダラよりもさらに小さなこの村には、ウェブ・サヤドーが悟りの最高位のアラハン(阿羅漢)であることを聞きつけた人たちが世界中から訪れたという。今では海外から来る人は年に数えるくらいだが、それでも私たちのように彼の僧院を訪ねる人がとぎれることはなく、また僧侶たちも、さまざまな場所からやってくる人たちを受け入れていた。
ウェブ僧院の中心にはロータスの花が咲く美しい池があり、金色に縁取られたクリーム色のパゴダの上品な佇まいが、水面に反射していた。僧侶たちの住居のほかに、村の子どもたちが通う学校や集会場も併設されている。池の周りでは犬や猫たちが自由に走り回り、いのちの気配があちらこちらに見受けられて、落ち着いた静けさとともに、自然と調和したやわらかな雰囲気に満ちていた。
世界の片隅に、こんな場所があるなんて——。ヤンゴンの喧騒や土埃からは想像のつかない風景が目の前に広がっていた。
「ようこそウェブ僧院へ。長旅でお疲れでしょう。」
副僧院長のマンダラさんが私たちのために、お茶や食事、布団などをすべて準備して出迎えてくれた。マンダラさんの和やかなもてなしとは反対に、僧院に滞在するのが初めての私たちは英語もままならず、どこかぎこちなく緊張していた。どんなふうに僧侶と接したらよいのか、失礼がないかどうか、そんなことで頭がいっぱいだった。けれどもマンダラさんはこちらの緊張を察するかのように、ミャンマー訛りの英語で気さくに話しかけてくださり、彼自身が趣味で描いている絵や、これまでに僧院に訪ねて来た外国人の写真などをいくつか見せてくれたりもした。マンダラさんはこの村で生まれ、子どもの頃からウェブ僧院で育ち、ウェブ・サヤドーに直接会ったことのある数少ない人でもあった。
シャン人の子どもたちとある僧侶
僧院の母屋の2階がマンダラさんの住まいで、私たちもそこに滞在させてもらった。2つの個室の他に、広間には外国人が食事をするための4人がけの机と椅子がぽつんと置かれ、壁側には、絵の道具や本棚や食器棚などがいくつか並んでいた。そこでは、10歳前後の子どもの見習い僧たちが7、8人ほど、一緒に過ごしていた。どの子もテレビに夢中で、夜になると自分たちで布団を並べ、川の字になって眠る。毎日マンダラさんと一緒に寝起きして、食事し、テレビを見て、宿題をする様子は、さながら小さな保育園のようでもあり、微笑ましかった。
聞けば、この子たちは周辺にあるシャン州の貧しい村から預けられたそうだ。ミャンマーは、多数の民族から成る国家だが、その大半はビルマ族で、他の民族は自治権を持たずにビルマ化政策を強いられている。けれども、言語や習慣などは今も少数民族独自のものを使っているため、ビルマ族中心のミャンマー社会で経済的な発展が望めないというジレンマもある。
マンダラさん曰く、彼らシャン人の村はとても貧しくて、子どもの頃にこうして僧院に預けることによって、食べるものや着るものが与えられ、勉強もさせてもらえることから、両親は自分たちの村で育てるよりも、僧院に預けたほうがはるかに子どものために良いと考えるそうだ。実際に移動費もままならず、子どもたちは親とともに僧院までバスに乗らずに3日間かけて夜な夜な歩いてきたという。マンダラさんは、最初は一人だけ預かる約束だったが、一人から二人、二人から三人へと、だんだんと子どもの数が増えていると笑っていた。
しばらくすると別の僧侶がやってきて、村の近くを案内してくれることになった。名前はウォンナさんといい、カイン族の出身だと紹介してくれた。ウォンナさんは子供の頃からずっと僧侶で、ヤンゴンの大学で英語とパーリ語を学び、「アビダンマ」などの難解な経典もすべて学び終えているという。ウェブ僧院に来てまだ3年ほどだが、英語ができるため、外国人を案内する役目を担っているようだった。
私はウォンナさんに親しみを感じた。彼は子供の頃から生粋の僧侶で、俗世で労働をしたことがないそうだが、僧侶にありがちな生真面目さはなく、そのたたずまいはとても軽やかで、むしろ人間らしさに溢れていた。時々いたずらっ子のような笑みを浮かべて冗談を言ったり、みんなを笑わせたりして(先生にはよく怒られるそうだが)、村の人や後輩からも慕われていた。
シャン州からやって来たあの小さな見習い僧たちも、たとえ故郷が貧しくとも、戒律を守り、経典の勉強もして、20歳になったら本格的に出家することで、ウォンナさんのように人々から尊敬されるような僧侶になる可能性もある。ブッダの時代から続くサンガ(僧侶)のコミュニティーがミャンマーに今も存続しているおかげで、生まれや育ちに関係なく、ビルマと少数民族の壁を超えて、どんな人も健全に生きていける希望がここにはあるように感じた。
何もないのに、そこにはすべてがあった
私たちはウォンナさんと一緒に美しい僧院を抜けて、村を歩きながらパゴダの方へと向かった。小さな村には車がほとんど走っておらず、バイクさえも時々見かける程度で、自転車か歩いている人たちと時折すれ違うだけだった。牛車がカタカタと音を立てて荷物を運んでいく。あたりにはピーナツ畑や田んぼがどこまでも広がっていた。村の人たちの住まいは簡素で慎ましく、建物は竹や木の皮や草を編んだもので出来ていた。庭先には家畜の牛がつながれていて、鶏や子犬や猫があちこちで走り回っている。エンジンの音がないせいか、村はとても静かで平和な空気に包まれていた。
僧院の近くには、村の人たちの布施で建てられたウェブ・サヤドーのパゴダや、彼が晩年に過ごした建物があった。建物の中には、実際に使っていたベッドや、小物などが展示されており、外の車庫には外国人から贈られたという立派な車もそのままに残されていた。
ウェブ・サヤドーは、経典中心の仏道修行に安住することなく、瞑想を熱心に実践することによって、アラハンに達した僧侶として知られている。またウェブ・サヤドーは、当時すでにヴィパッサナー瞑想を実践していたサヤジ・ウ・バ・キンとの交流を深め、ウ・バ・キンに瞑想実践の励ましを送ったと語り継がれている。ウ・バ・キンを通じて多くの在家者にヴィパッサナーが広まり、その後S・N・ゴエンカ氏に受け継がれて、やがてミャンマーから世界中へと広がっていった。
ブッダの時代から気の遠くなるほどの時間を経て、いまこうして日本でもヴィパッサナーの恩恵にあずかることができるのは、ウェブ・サヤドーやレディ・サヤドー、またその生徒たちの絶え間ない努力のおかげに違いない。だからこそ私も、ミャンマーに行ってその源流を遡り、ウェブ・サヤドーたちが大切にしてきたものを自分の肌で直接感じてみたいと思った。そしてたった今、彼が生まれた村であり、晩年を過ごした場所に私はいた。
それなのに、実際にウェブ・サヤドーが滞在していた場所で、写真や遺品をどんなに眺めてみても、いまひとつ彼の存在を感じられないでいた。目の前にあるものがどんなに貴重であるかを頭で想像してみることはできても、想像の域を超えてウェブ・サヤドーを直接知ることができなかった。それがなんだかもどかしく感じられて仕方がなかった。
一通り見学を終えた後、ウォンナさんが「こっちだよ」と言って、敷地の外へと歩き出した。ウォンナさんの方に振り向いたとたん、オレンジ色に輝く夕焼けの光に全身が包まれた。にわかに時が止まったような空白が訪れた。たった一瞬のその空白、それこそがウェブ・サヤドーの「答え」なのだと直感した。ウェブ・サヤドーはどこにもおらず、またどこにでもいる。いまここにあるのは、まっすぐに続く赤土の道と、混じり気のない夕陽と、夕陽と同じ色の袈裟をまとった僧侶。その他には……その他には何もなかった。何にもないのに、そこにはすべてがあった。
パゴダも、田んぼや畑も、子どもたちも、動物たちも、木々も、空も、すべてがひと続きの同じ場所にあった。
ウェブ・サヤドーが届けてくれた「平和」
インジンビン村はとても小さくて、素朴で、ウェブ・サヤドーのパゴダや僧院を除いてはとりわけ目立った観光所のようなものはない。ウォンナさんは「この村には何もないよ」と冗談っぽく言っていたけれど、確かに何もないようにも見えるし、畑も田んぼも空も夕陽もあって、どこもかしこも満たされているようにも見える。何よりも、そこにいるだけで私の心は自然と穏やかに、静かになっていた。
つい最近まで国の政策も不安定で、軍事政権と少数民族との衝突もすぐ近くで起こっていたのだが、ウェブ・サヤドーが入滅して何十年経った今も、この小さな村には「平和」が変わらずに体現されている。この静けさ、安らぎ、穏やかさ、やわらかさ……それはまた、わたしたちの本質でもあるということを、だからこそ、ここにいるだけでそれが実感できるのだということを、ウェブ・サヤドーが今も伝えてくれているようだ。その他の一切の苦しみ——世界で起こっているような争いや貧困——は、この本質を忘れることによって起こっているに過ぎないのだよ、と。
後日ウォンナさんとドライバーさんに、近隣の村を2日間に渡って車で案内してもらい、たくさんのパゴダやさまざまな名所を観光し、モンユワにあるレディ・サヤドーの僧院や、ウェブ・サヤドーがアラハンに達せられたという洞窟にも足を運んだ。それらのひとつひとつがありがたかった。けれども、たとえどんな場所に行っても、インジンビン村の「平和」を知った後では、それらが特別なものには感じられなかった。さまざまな場所を見学すればするほど、かえってあの素朴な風景がよりいっそう、身近に感じられるのだった。
特別なものを探しにミャンマーに来たけれど、特別なものなどどこにもなく、それゆえこれ以上どこかに探し求める必要はなかった。なぜなら、どこに行っても変わらない風景が心の内にあるのだから。小さな村の風景や、マンダラさんやウォンナさんのことを思い出すだけで、いまも暖かさが甦ってくる。それはいつもそこにあるし、これからもずっとあるだろう。
アラハンという聖者がどういう人たちなのか、ウェブ・サヤドーという人がどんなにすごい人なのか、今の私にはわからない。けれども、ウェブ・サヤドーが届けてくれた「平和」なら、たったいまも感じている。
それはまた、もうずっと前の時代にブッダが教えてくれたことでもあった。そしてブッダは今この瞬間にも、ひとときも中断することなく、その教えを私たちに伝え続けてくれている。
プロフィール
浅野佳代(あさの・かよ) 瞑想と文筆。サウダージ・ブックス代表。
Instagram: @kayo_saudadebooks
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