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  • 執筆者の写真Saudade Books

巡礼となりて #1 如月 冬の効用(佐々琢哉)

更新日:2019年10月19日


高知県の四万十山暮らし、ときどき旅。野の中で素朴で質素な営みを願う日々を詩とエッセイでつづります。



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巡礼となりて


その道は、我がこころの内から始まるものだった

こころの声を聞いたから


その道は、外へ、外へと、拡散していくものだった

好奇心という旅の先導者に出会ったのだ


巡り、巡り、

辿り着いた、その景色


その道は、収縮し、我が身の内へと帰っていくものだった

ついに、真実と出会う場所を見つけのだ


あぁ、

いま、ここが、聖地であることを知る


そして、

日々の営みは、喜びとなり、この星の創造となる





ホー・ホケキョ


節分過ぎて、梅の花咲き、ウグイス一声鳴きました


蜜蜂、ブンブン、飛んでいます


木々の蕾、ムズムズ、日に日に膨らんで


さぁ、春の到来です



東京から四万十川のほとりへ移住してきて、6年目の冬が終わろうとしています。今冬は、こちらに住み始めてから一番の温かな冬となりました(とは言え、やっぱり寒い……)。ここの暮らしを始めるまでは、寒さが身にしみるこの季節、それは一年で一番苦手な季節でした。それが、どうしたことでしょう、いまとなっては、冬が過ぎ去っていくのを心惜しくも感じるのです。こちらの古民家の暮らしは、都会のその暮らしよりも、よけいに寒さが身に染みるというのに。それは、四万十の自然に囲まれた質素な暮らしの中で、冬の静寂の美しさを垣間見る瞬間にたくさん出会ったからです。その日々の清らかな瞬間の数々は、まるでキラキラと舞い踊る幾万もの雪の粒が、散り散りとした心の隙間を埋めていってくれるようでもありました。そして、その過程において、ぼくのこころがその静寂の景色と同調していった時に、自身の内に外に、この瞬間の美しさが立ち現れてきたのです。


そのような心境の変化を、移住一年目の春を迎えるちょうどこの頃に、このように綴っています。






四万十に越して来て、はじめての冬を迎えています。


冬の時間、そこには静かな魔法がありました。



冬の一日の始まり。目覚めに戸を開けると、朝の特別に澄み切った空気がぴんっと張りつめています。この張りつめた寒さは、透明に輝き、神聖さに満ちあふれ、朝の空気を吸い込むことの喜びを与えてくれます。この瞬間、寒さとは温度以上の意味をもって世界に散りばめられ、そして一日が始まって行くのです。


朝日があの山の向こうに昇ると、白く霜に覆われた大地が動き始めます。朝一番の日を浴びる畑にいって、日だまりに身をさらし、寒さにこわばった筋肉が緩んでいくのを感じていると、足下の野菜たちも同じようにしているではありませんか。霜の下、ギュッと縮こまって耐えていた葉をのびのびと広げているようです。こんな野菜の様子をみていると、とても可愛くて仕方ありません、野菜をこんなにも可愛く思えるとは知りませんでした、自身の手で育てている野菜だけに、気持ちが入りすぎているかもしれませんね。とは言え、そんな野菜たちはとびっきり美味しいののですよ。それは、確かです。そう、こんなにもけなげな野菜たちですが、冬の寒い日常、たくさんの喜びと滋養を与えてくれます。


山には、たくさんの枯れ枝が落ちています。落ち葉踏みしめ集めた枯れ枝は、火となり、暖となり、山の匂いを立ちこめ、家中に広がっていきます。こんなとき、とても不思議に思うのです。さっきまでは山の一部だった枝が、いまは火となり、ゆらめき、部屋を暖め、ぼくの体温となったのですから。全ては繫がっていますね。そのことにとても感謝しています。そして、その不思議さにワクワクします。


さあ、あたりは暗くなって来ました。澄んだ空気の夜空の大スクリーンには、大宇宙が映し出されるのですよ。昼と夜の空の劇的な変化には本当に驚かされます(とくに、夜中に離れにあるトイレに行くために外に出て、不意に空を見上げると、その星の数に我を忘れて「わぁ」と声をだしてしまいます)。星たちの瞬きが山々に降り注いでいるのが見えるようです。この星たちの瞬きの放射にも、確かな栄養があるのでしょうね、青白く照らし出された山や谷、川を見ていてそう感じます。彼らは、星々の青白い瞬きに揺られ、その光を吸い込みながらトクトクと呼吸を重ねています。同じように、その光線は、ぼくの体の芯を通って心の奥まで突き抜けていくのです。そう、朝の神聖な空気を一杯吸い込んだときのような、内側から広がっていく、あの感覚です。



きらきらと美しい冬の魔法には、奥深さもありました。


そのことも、みなさんにお話ししなければと思います。


ぼくは、この冬、寂しさを感じたのです。


いままでに感じたことのないような、大きな、大きな、寂しさです。



その寂しさは、冬の静けさの美しさに心を捕われているうちに、するりとぼくの心の中に入ってきていました。この表現はとても正しい表現だと思います。なぜならば、冬の美しさに心を捕われるとは、それだけ自然に心が同調していた状態だったからです。そして、自然と同調したことによって湧き出て来た感情、それが「寂しさ」だったのです。そう考えると、この寂しさは自然なこと、いま必要なことのように思え、ただ、ただ、その寂しさを抱きしめていようと思えました。


いままでの様な、都会での暮らしや、旅の移動型の暮らしをしていたら、この寂しさはきっと湧き出てこなかったでしょう。それは、いままで、常にぼくの内に内在していたとしても。この冬は、この土地に根を生やして暮らそうと決意をし、淡い春に四万十に越して来て、躍動の夏を過ごし、紅い秋を過ごした後の、静寂なる冬なのです。


こうして、感情の変化も季節の変化とともに一年という単位で俯瞰してみると、この「寂しさ」というものの意味がわかるような気がします。その視点から見ると、この「寂しさ」を表面に浮き上がらせてくれたのは、自然が処方してくれた「冬の効用」なのだと、ありがたく感じています。一年という単位の中の冬の静かな時間に自分を内側から調整し、さらには春に芽吹くための準備をしてくれているのです。冬の静寂は己の内へ内へと意識を向けて行くのにふさわしい時だと実感しています。また、「冬の効用」にしっかりと反応できている自分の心と体の変化にも気付くことが出来ました。この変化は、ここの質素な暮らしと自然のおかげです。


ぼくはこの冬を振り返る日が来るとき、「美しく寂しい冬」だったと思うでしょう。それは、過去の愛おしい人を想うように。


さあ、冬を味わい尽くした後の、春の訪れはいかがなものでしょうか。冬を耐えた後の木々のしなやかさと、やわらかな新芽を思います。



2014年1月末日 



追伸


今朝、雪がちらつく朝の光に、黄色い菜の花が咲いているのを見つけました。寒い毎日のなかの菜の花が届けてくれたその小さな変化は、日常の喜びとともに、何か大きなものが確実に動いていることを感じさせてくれました。その大きなものの営みを感じたとき、ぼくの心に確かな安堵感が流れ込んできました。







5年前に書いた移住一年目の文章を、いま、こうして読み返してみるのはなかなかに興味深いものですね。いまや、ここでの暮らしにすっかり慣れてしまって、感じなくなってきてしまっていることも、言葉の端々に見受けられます。そのことを寂しくも思ったりしますが、これも、もっとおおきな単位で俯瞰した見てみれば、いまはいま、過去から未来への連なりの中、いまこの瞬間の状態、あるがままの意義があるのでしょうね。


しかし、今だって飽きることなく、毎日毎日ワクワクと、一日の始まりを迎えているのですよ。6年も経てば場所も整い、暮らしの風景もだいぶ変わってきました。自分の意識が形となり、新たな景色が広がっています。「さあ、明日には、どんな新しい景色が広がっているのだろう」と一日の終わりを惜しみながら床につき、朝起きればいてもたってもいられなく玄関戸を開け、朝靄の野に山、畑へと駆け出していくのです。





ホー・ホケキョ


さあ、冬が過ぎ、春が来る

おなじ春だけど、一度きりのこの春が来る


朝目覚め、太陽昇り、山の向こうにお月さん

おなじ一日だけど、毎日があたらしい


今日も、朝からこころが踊っている

戸の向こうから聞こえてくるその調べにのせて、こころが踊っている


今宵の月は、まんまる

満ちては欠けて、満ちては欠けて


わたしの命、あなたの命、膨らんでは消えて、膨らんでは消えて

わたしの気持ち、あなたの気持ち、膨らんでは消えて、膨らんでは消えて


トクトク、トクトク


移り変わっていくものだけど、ただ、ただ、ここに在りたいな

その思い、叶いました

今日という一日を、授かりました


ワクワク、ワクワク



プロフィール


佐々琢哉(ささ・たくや) 1979年、東京生まれ。世界60カ国以上の旅の暮らしから、料理、音楽、靴づくりなど、さまざま なことを学ぶ。 2013年より、高知県四万十川のほとり、だんだん畑の上に建つ古民家に移住し、より土地に根ざした自給自足を志す暮らしをはじめる。全国各地で不定期にローフードレストラン「TABI食堂」 や音楽会を開催。TABIは、中米を1年間一緒に旅した馬の名前。 2016年にローフードのレシピと旅のエッセイ本『ささたくやサラダの本』(エムエム・ブックス)を刊行。 Website: http://tabi-kutu.namaste.jp/





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