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  • 執筆者の写真Saudade Books

Walkabout #3 ミャンマーへの旅・前編(浅野佳代)

更新日:2021年6月2日



旅とヴィパッサナー瞑想の実践を通じて学んできたブッダの教え、自然の教えをテーマにしたエッセイです。


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真冬の日本からミャンマーへ。ブッダの教えを学び、ヴィパッサナー瞑想を始めて3年。その源流の地とされるミャンマーにいつか行ってみたいと思っていた。2018年の12月、友人や家族の協力と理解によってその願いは実現し、成田空港から飛行機を乗り継いでミャンマーにやってきた。


12月のヤンゴンは、気温30度近く。飛行機を降りた瞬間からむわっとした熱気に包まれる。亜熱帯の空気感やヤシの木がそびえる風景は、昔よく旅していたバリ島に似ている。仏教国らしい、人々のやわらかい微笑みや気品に旅の疲れが癒される。


空港からタクシーに乗ってホテルに着くと、部屋には一輪のバラの花が飾られ、テーブルには果物が添えられていた。窓からは、赤い屋根瓦の向こうに、シュエダゴン・パゴダ(寺院)の尖塔がうっすらとみえ、光り輝いていた。


翌日、日本からやってきた友人と合流し、私はヤンゴンのインターナショナル・メディテーション・センター(IMC)で10日間のヴィパッサナー瞑想に参加した。






IMCでの瞑想とインストラクション


IMCは、瞑想の指導者であるサヤジ・ウ・バ・キン(1899〜1971)によって創設された。黄金色に輝く小さなパゴダとメディテーション・ホールを中心にして、左右に男女の宿舎が斜面に沿って階段状に建ち並んでいる。敷地内には先生の宿舎もあり、外国人生徒の講話(インストラクション)は毎晩そこで行われる。


コース中は、5つの戒律(嘘をつかない、盗まない、誤った性行為をしない、アルコールや麻薬を摂取しない、殺生をしない)と、さらに3つの戒律(正午以降に食事をしない、歌や踊りなどの娯楽や装飾品をつつしむ、豪華な寝台で眠らない)を守り、聖なる沈黙(私語を避ける)を保つ。毎日4時に起床し、朝、昼、夕と休憩を挟みながら、ダンマホール(外国人には個室のセルも与えられる)で座って瞑想し、夜は先生のインストラクションを受ける。インストラクションの時間には、地元の人はウ・バ・キン先生の講義をテープで聞き、外国人の生徒は、先生との対面による英語の講義を聞く。食事は朝と昼の2回で、米のごはんを主食に、豆料理、野菜スープ、果物などをいただく。夕方の5時頃にお茶の時間がある。就寝は21時。


ミャンマー人の先生による英語の講義は厳しく、ふだん聞きなれない難解な単語や専門用語も多かったが、「いま身体に起こっていることをそのまま観察する」や「どんなときも呼吸に気づいている」など、ほんとうに必要な知恵はいつもシンプルな言葉で、まっすぐに心に届くのだった。



在家信者にもひらかれた場所


講義の他にも、時々小さなパゴダでアーナパーナ瞑想とヴィパッサナー瞑想も指導してくださった。アーナパーナもヴィパッサナーも、現実のありようをそのままに観察する。そのときに助けとなるのが、「呼吸への気づき」。鼻腔の入り口に息が入ってくる、息が出ていく、その微細な感覚に集中する。その瞬間、過去も未来もなく、いまここの呼吸のみが存在する。私が息をしているのではなく、息がただ起こっている、ただここに息がある。さらには、息という名前すらも失われて、現象だけが残る。この現実だけをひたすら観察していく。


ヴィパッサナーはブッダが実践した瞑想法とされるが、インドでの仏教の衰退とともに失われ、25世紀のあいだインドから東南アジアにかけて細々と伝えられるのみとなった。それが現代のミャンマーで復活するのだが、ヴィパッサナー瞑想は、僧侶や限られた人たちだけのものではない。ブッダの教えは、年齢や国籍、宗教や職業にかかわらずすべての人のものである、という伝統を受け継いだウ・バ・キン先生やその先生のサヤ・テッ・ジ(1873〜1945)は、在家の人にも実践できるようにと、それを必要とするあらゆる立場の人に伝えることに尽力した。それは私がミャンマーに来て何よりも実感したことだった。


ウ・バ・キン先生のIMCもまた、在家信者にもひらかれた場所だ。日々瞑想をおこなうダンマホールを見渡すと、出家した尼僧たちの他に、お年寄りが多いことに気がついた。仕事を引退し、老後の時間を生かして、毎月通う人が多いという。ここでは誰もが日々ダンマ(法)に触れて、戒律を守り、布施をし、暮らすように瞑想生活をしている。なかには常連として参加している80代のおばあちゃんもいた。



ミャンマーの人たちとの交流


コース中、お向かいのお部屋のキンさんというおばさんと親しくなった。キンさんは日本語と英語が話せる。聞けば日本で働いた経験があるという。ある日、食堂でもらったオレンジをおすそわけすると、代わりにタッパーに入れたラペ(茶葉の炒め物)、ジン(生姜の炒め物)といったお惣菜のようなおやつを「どうぞ」と私たちの部屋にもってきてくれた。それがきっかけとなってキンさんには滞在中、いろいろとお世話になった。


厳密に言えば、センターでは10日間のコース中、私語もおやつの持ち込みも禁止されているけれど、どこか黙認されているゆるやかな雰囲気があり、そのおかげで地元の方とのささやかな交流が生まれ、そのやりとりに喜びを感じた。


他のヴィパッサナー瞑想センターだと、10日間のコースに臨むにあたってもっと厳しい規則や年齢制限を課されたりするのだが、IMCは1日のスケジュールもゆるやかで、体の弱いひと、年をとったひともおおらかに受け入れている。キンさんも足が悪くて杖をつきながらも、毎月ここで過ごすようになって5年経つ。


キンさんのほかにも、世話係のララさんとも親しくなり、コースの後にロンジー(ミャンマーの民族衣装)のお店に連れて行ってくれたり、次の旅程のバスチケットやタクシーの手配など、さまざまな協力を惜しみなくしてくださった。キンさんはお別れの前に、私たちの買ったロンジーを夜なべ仕事で裾上げをしてくれた。出発の朝には、私たちの顔に天然の日焼け止めのタナカを塗りながら、「あなたたちは娘だから」と目に涙を浮かべていた。


今回の旅では、地元のミャンマーの人たちと一緒に瞑想できたことが何よりも貴重な経験となった。ブッダの教えに対する彼女らの熱心さ、純粋さ、私のような外国人をもてなし気遣う親切心、あたたかな笑顔、普段から徳を積むことを大切にしている姿勢、つまり喜捨のこころ……。受け取るものがたくさんありすぎて、いまだに気持ちが追いつかない。





仲良くなった尼僧さまのことも忘れられない。私たちに果物やお菓子を持ってきて、何もおっしゃらず、ただにこにこと微笑んで差し出してくれる。


あるとき、部屋の外を「さっさっさっ」と箒で掃く音がしたので窓をのぞくと、尼僧さまが割れた植木鉢の瓦礫が散乱していた塀の周りを掃除していた。あとで気付いたのだが、尼僧さまは毎日、私たちが瞑想をしているあいだ、たった一人で黙々と敷地の清掃をつづけていたのだった。ご主人を亡くし、60歳を過ぎて出家をされたという。彼女の笑顔は誰よりも輝いていて、憂いの影は跡形もなかった。その微笑みを見かけるたびに、私のこころは和んだ。


朝ごはんが、いつもより豪華な日があった。ある女性が私たちのテーブルに来て、「今日は私の誕生日なのでごちそうをさせていただきます」と静かに語る。誕生日には、日本だとプレゼントをもらって喜ぶのが当たり前だが、ミャンマーでは誰かにプレゼントや施しをすることが、その人にとっての幸せであり喜びであることを知って驚いた。


キンさんからIMCでは食事の寄付ができることを聞き、共にコースに参加した友人と自分たちも何かお礼をできないかと相談し、150人分の朝食とオレンジジュースを1日分、寄付することにした。金額にすれば日本円で1万円にもみたないけれど、この経験によって、寄付をすることも徳であり、寄付をありがたく素直に受けることも徳であることを知った。そして、その日以降、外国人とミャンマー人という垣根を超えて、地元の方たちのほうから話しかけてくれるようになった。



豊かさが風のように循環し、流れている


時々誰かが部屋をノックして、おやつや果物や飲み物などをわけてくださると、それをありがたく受け取って、私たちも何かをお返しをする。こうして溢れんばかりの豊かさが日々わかちあわれ、IMCでは「欠乏感」は無縁だった。もちろん、センターを一歩外に出れば、ヤンゴンの路上には物乞いもストリートチルドレンも、あばら家のような家並みの街区もあり、疑いない貧困の現実がある。


それでも、ブッダの教えを守り、ヴィパッサナー瞑想をおこなう場所では、わかちあうという徳によって、豊かさが風のように循環し、流れていることも事実だった。


この豊かさの循環に浸る日々のなかで、欠乏感は幻想であることに私は気がついた。欠乏感は「欲しい」という心によって生まれ、わかちあうことよりも、もらうことばかりに意識を向けるあまりに、ここにある豊かさに気がつかない。気がつかないから、受け取ることもできない。与えることもない。その悪循環を変えていくためには、ブッダの教えであるダーナ(寛大さ・布施)をおこなうことが理にかなっているということを、身をもって学んだ。


厳格になりがちな瞑想修行において、IMCのおおらかでゆるやかな雰囲気のなか、ミャンマーの人たちや旅の仲間と一緒に座ってヴィパッサナー瞑想に励み、豊かさや徳の恩恵にふれることで、私はごく自然に「寛容さ」を学ぶことができたと思う。それはまた、日常と瞑想が別々のものではなく、毎日の生活で自然にブッダの教えを実践していくことにもつながっている。5つの戒律を守り、瞑想で心を浄化し、徳を積む行為を心がける。そんなシンプルであたりまえのことを淡々と続けていくところに、幸せは宿っているのだろう。





(つづく)



プロフィール 

浅野佳代(あさの・かよ) 瞑想と文筆。サウダージ・ブックス代表。Instagram: @kayo_saudadebooks



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