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執筆者の写真Saudade Books

ローカル・トライブ 後編(宮脇慎太郎)

更新日:2019年10月19日



新泉社より近刊予定の著者のノンフィクション『ローカル・トライブ』に収録予定の序章を、2回にわけて紹介します。





大学卒業後、京都の出版社にカメラマンとして就職。地方自治体が発行する出版物を製作する会社で、観光パンフレットや町史、要覧などに使用する写真を撮影するため、1年間で3万キロを越える距離を車で移動することになった。


当時はデジタルカメラもまだ普及しておらず、すべてリバーサルのポジフィルム。ペンタックス67にフィルムを詰め、重い三脚を担いで役場の担当者に史跡や文化財を案内してもらう。昼間は道路が渋滞するので夜が明けないうちに車で走って、適当なところで仮眠をとる。朝9時になると同時に先方を訪問して、一緒に地域を隅々まで撮影しながら回る日々が続く。祭りのシーズンなどは日程もだいたい被るため、目も回るような忙しさだった。


そんなある時、担当者の運転する車で山奥の林道を延々と走っていた時、ふと斜面に植えられた大きな杉の木の根元に、立派な石垣が段々に積まれた箇所を見つけた。たずねると、「ここも昔は小さな集落があったんや」と言われはっとした。何気ない景色に積み重ねられた、はるかな時間に思いを馳せる。


ここに住むと決め、林野を開墾し、石垣を築いて家を建て、村を作り、ほぼ自給自足で暮らしていた時代の労力はいかほどだったのだろうか。かつてここに確かにあった生活の歴史が絶たれ、人びとは土地を去り、家は崩れ、その後植えられた木がここまで大きく成長するまでの膨大な時間——。石垣の立派さが当時の人の技術力の高さと、ここに住もうと決めた意志の強さを感じさせる。二度と取り戻せない人間の営みの痕跡を残すこういう景色が、日本全体でいったいどれほどあるのだろう。それまで国内は興味のあるところはくまなく旅し、もう見るべき所はないとさえ思っていた。しかしその実、何も見えていなかったことに愕然とした。


ある地方では町勢要覧に掲載する予定のお地蔵さんが、本来あるはずの場所になくてどうしても見つからない、ということがあった。そうとうな山奥だったし、日も暮れかかっていたので諦めかけたその時、担当者が「あれや!」と声をあげた。見ると4メートルくらいある崖の下に、確かに石の塊らしきものが、落ち葉に半分埋まって転がっていた。



僕は撮影することは無理だと思ったが、役場の人は一目散に崖を降りていく。どこの自治体でも郷土史の専門家は、一風変わった人が多かった気がする。宵闇が迫るなか、二人がかりで必死で石仏を拾いあげ、元の場所に戻して撮影した。

あのお地蔵さんは、いまもあそこに無事に鎮座しているのだろうか。僕たちが拾いあげなければ、あのまま土地の奥深くに埋もれてしまっていただろう。



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その次に就職したのは、東京のど真ん中にある写真スタジオだ。六本木にスタジオがあったので、それまでの生活と打って変わって、撮影のために芸能人やミュージシャンなども頻繁にやって来る大都会のきらびやかな世界だった。会社は寮も完備していたので住まいも六本木、目覚めると、朝日を浴びて植物のようにどんどん伸びてゆく東京ミッドタウンのビルの光り輝く姿が窓から見えた。びっしりと詰め込まれたスケジュールで、朝から晩まであらゆるカメラマンの撮影のアシスタントをする日々。それまで完全に自己流でやってきたので、他人の撮影の流儀を見ることは本当に勉強になった。ライティングから基礎的なスタジオワークまで、現在の僕の撮影の技術ベースはほぼここで作られたと言っていい。


スタジオマン時代は、ロケアシスタントもしていたので海外出張も多かった。たしかに、ここでは経験を積み重ねて技術を身につけることができた。しかし僕はどうしても東京の仕事に馴染めないでいた。巨大なシステムのような何かの一部になって、自分の身の丈以上のことに人生を委ね、後ろを振り返ることを許さない忙しさによって、考える暇もなく物事が過ぎ去ってゆく——。ここは、自分がずっといる場所ではないという違和感が日に日に増していった。


ちょうどこの頃、都市生活の窒息しそうな閉塞感からか、日本でも地方回帰が静かなブームとなりつつあった。一般的な田舎暮らしやリタイアとは別に、都会での消費社会を捨て、自然豊かな土地で自律的な暮らしをしようという運動は「Back to the Land」と呼ばれ、アメリカのカウンターカルチャーにルーツを持つ。しかしあくまでその時は一部の先進的なマインドを持つ者を中心に広がっているだけで、一般人にまで波及するような動きではなかった。


その後も旅は続いていた。だが移動に移動を重ね、見聞を広げて意識を拡張することは本当にきりがない。ここではないどこかへ、いまではない未来へ選択肢を残しながら、前へ前へと進むことにもう限界がきていたのだと思う。


長距離列車で深夜に降り立ったハルピン駅、バイクタクシーに乗って駆け抜けたパタヤビーチ、セントパトリックデイで沸き立つニューヨークから乗ったグレイハウンドバス、リューゲン島の先端にある朽ちた灯台へ向かう小さな渡船。移り行く景色の中で、旅人なら誰もがふと抱くであろう「もしかしたらここで生まれた人生もあったのだろうか」という思い。いま目の前をまさに通り過ぎてゆく一瞬の景色にも人びとの日常があり、労働があり、生活がある。その土地に生まれ、出会い、別れ、愛し、子供を産み育て、子孫を繋いでゆく輪廻がある。移動すればするほど、「生きることはどこでも同じだ」という感覚が確かなものになっていった。


そこではじめて、「故郷に帰る」という選択肢が心のなかで頭をもたげてきたような気がする。東京でそのままカメラマンの仕事を続けることも一時は考えたが、より本質的な写真表現に自分の人生という時間を使っていきたかった。「日本の変化は早いぞ」という大学時代の先輩の言葉もまだ頭に残っていた。あと10年で見られなくなる風景がどれほどあるのだろう。


そんな疑問を抱えて悶々としていた折、彼女の妊娠が発覚。自分がどこで生きていくのか? 何を撮るべきなのか? いままでずっと先送りにして来た問いに、早急に答えを出さなければいけない事態になった。しかし、もう答えは決まっていた。



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ずいぶん遠回りをして、僕は故郷の香川・高松に戻ってきた。


ただし、大学進学時からほとんど里帰りをしていなかったため、家族以外は友人知人もほとんどいない0からのスタート。そのストレスに加え、当初は仕事面などでも苦労し、何度か東京に戻ろうと思ったものだった。


しかし世界を旅してからあらためて見る瀬戸内、そして四国という「ローカル」の魅力に徐々に惹かれてゆく。有人島だけで300を越える瀬戸内の群島は、島が違えば風習や言葉も違うというふうに、それぞれがまったく異なる特徴を持つ。そして西日本第一、第二の高峰を有する四国はその険しい山脈によって東西を分断され、徳島、香川、愛媛、高知の4県には異なる県民性があった。


交通の便のよいところはすっかり開発されてしまった今の日本だが、僻地や辺境にはまだまだ豊かな自然とともに暮らす人びとの伝統的な生活が残っている。また、巡礼の聖地として多くの白装束の遍路たちが訪れ、四万十川に代表される美しい清流も多数残る。


それまで遠くの土地にばかり目を向けていたため、恥ずかしながら地元の魅力を全然知らなかった。のちに日本三大秘境の一つである祖谷渓谷を撮り続けたシリーズは、自身初の写真集『曙光——The ligh of the Iya valley』として結実する。


帰郷すると、自分の心の原風景とも言える実家の横の神社の森が開発によって失われていた。子ども心に恐れていた昼なお暗い神聖な森の闇。それに変わるような自分にとっての大切な場所を求めていた時、たまたま出会った場所、それが祖谷渓谷だった。やがて撮影で通ううちにそこに住む人々との出会いを重ね、人物を通してよりその土地に深く入り込んでいくことになる。京都の出版社時代に覚えた旅のやり方そのままだ。


人を知るというのは、足早に土地から移動する水平方向の旅とはちがって、その土地の昔の様子などを聞いているうちに、時間のなかを垂直に降りてゆくような意識の旅の経験となる。僕は、人との出会いを通してその土地の歴史や記憶、風土にますます引き寄せられるようになった。人と風土は密接に結びついている。人が風土を作るのではなく、風土が人を作るのだから。


ファインダー越しに人と風土を見つめ、「日常の中の聖なるもの」を浮き彫りにしていく自分の撮影スタイルが確立されると、あらゆる場所にカメラ一台あれば飛び込めるようになっていった。瀬戸内の島々はもちろん、長編のシリーズとしては宇和海国立公園を次は撮影している。こうした自分自身の確かな目をもつことは、東京にいたらずっと叶わなかったかもしれない。


文明や文化の中心地にずっといると情報量が多いので、そこだけで自分の世界が完結し、あまり遠く離れた周辺の地に意識が向かなくなる。しかし一度、視座を僻地や辺境に定めると、そこには世界中の情報が集まる東京ですら出会わなかった、刺激的で圧倒的な個性が存在することに気づく。


いつのまにか僕のまわりには、「自由人」と呼ぶにふさわしい新しいタイプの人生の探求者たちがいた。かれらは一様に、時代や周囲の環境に流されないマインドを保ちつつ、独自の人間関係のネットワークを築いて家族やコミュニティを大切にし、社会の全体をよりよい方向へ押し上げようとしている。ほとんどみな一度は故郷を離れて旅をし、外の世界と精神が繋がっているので複眼的な視点を持つ。そしてある時何かに導かれるように、Uターン者やIターン者としてローカルの地に流れ着いた。なかには、僕と同じように旅の途上で2009年の奄美大島に渡り、皆既日食を目撃した、という者もいた。都市から地方を見下すような目線を持たず、社会的な地位や見た目で人をジャッジしない、こうした「部族」(トライブ)との出会いは、ますます自分を瀬戸内・四国というローカルに引き止めてくれたように思う。


勘違いしないで欲しいのは、僕には東京を否定する気持ちは全然ないということ。そこは何より父の故郷で僕のルーツの一つで、大好きな友達もたくさんいる。住めば分かるが東京もまた一つの地方に過ぎない。



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2011年3月11日の東日本大震災直後には、災害の少ない瀬戸内地方に多くの移住者が流れ込み、その中の何割かは定住し、何割かは事態が落ち着くとまた去って行った。故郷に帰って一つの場所で生きて行くと決めた時から、定点観測者のようにかれらとの出会いと別れを繰り返している。この土地にやって来る旅人を迎え、この土地を宿り木にしてさらに遠くへ出発するものを見送る立場になった。かつての僕が、旅先でそうされたように。

あの日から、早8年。


当時の不安な日々で感じた日本人の連帯感、これを機にいままでの効率や経済を優先した大量消費型の社会から、持続可能な循環型の社会へと舵を切り、よりよい国になっていくだろうという漠然とした予感は、時間とともに薄れていっている気がする。一時は企業の西日本への本社移転などのニュースもたくさん目にしたが、2020年東京オリンピックなどもあって首都への経済一極集中はふたたび加速しているようだ。


しかし、静かに革命は進行していると感じる。かつて一部の人びとのものだった「Back to the Land」という思想が、はっきり意識されなくとも、より広く具体的な実践を伴ったかたちで日本列島のローカルに広まりつつある。高松に帰郷しておよそ10年。瀬戸内・四国という故郷を冷静に俯瞰することができるようになったいま、僕はこのローカルの地で出会った自由人たち——ローカル・トライブ——をあらためて尋ねようと思った。同時代に生きるかれらの肖像と証言を写真と文章で記録することで、本当に大切な何かをつかみとることができるのではないか、という直感が芽生えたのだ。


そう、人間の意識の最前線は、世界ではなく地方にこそある。ローカルなくしてグローバルなどない——。かつて見た森のなかに飲み込まれる石垣や、崖の下の落ち葉に埋もれつつあった石仏が、時を越えて僕に問いかけてくる。おまえの魂の還る場所は、どこにあるのか? と。





プロフィール


宮脇慎太郎(みやわき・しんたろう) 写真家。1981年、香川県高松市在住。著書に、日本三大秘境と言われる四国最深部の天空の集落・祖谷渓谷の四季を記録した写真集『曙光——The light of Iya valley』(サウダージ・ブックス)。瀬戸内国際芸術祭2016公式カメラマン。2019年以降、初のノンフィクション『ローカル・トライブ』、写真集『リアス・ランド』を刊行予定。



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