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ぼくらの詩(6)

最終更新: 2019年4月14日







アサノタカオ


聴こえてくる声を待ちながら——永井宏さんのこと





 悲しく楽しい音がした

 冷たく嬉しい音もする

 聴こえてきたのは、心の中の奥にある

 小さく残った過去の音

 遠くの方で、笑い顔が見張っている

   ——永井宏「聴こえてきたもの」


冬の昼下がり、斜めに差し込む光が、海辺の丘の中腹にたつぼくらの小屋の窓際に陽だまりをつくっていた。時計の針を確認してからコンロのつまみをひねってお湯を沸かし、お茶の準備をしながら、その人を待つ。


外から、落ち葉を踏みしめる足音が聞こえてきた。チャイムが鳴ると同時にがらがらと玄関の引き戸が開いて、「やあ」とその人は少しはにかむような笑顔をうかべて靴を脱ぎ、慣れた様子で室内にあがった。そして、「座らせてもらうよ」とひとこと言って、窓際に置いたソファに腰をしずめる。少し歩いただけで息がきれるんだ、というようなことをつぶやいて、深く呼吸をしながらじっと庭を眺めていた。


台湾を旅行した友人からお土産にもらった工芸茶の包みから、ジャスミン茶の玉をひとつ取り出し、ガラスのポットに入れてお湯を注ぐ。球状に丸められた茶葉がゆっくり開いて、なかから白やピンクの菊の花があらわれる。お茶にビスケットを添えてテーブルに運び、向かいのソファにぼくも腰を下ろした。


そして日が暮れるまで、ぼくらふたりは語り合った。


たとえば、詩や文学のこと。あるいはリトルプレスやちいさな書店のこと、若い頃にみたお気にいりの映画のこと、日本の政治や歴史のこと、ぼくらが暮らす海辺の町のこと、ローカルで育むべきこれからの文化のこと。


「その人」とは、詩人で美術作家の永井宏さん。2010年の冬のあいだ、ぼくは20歳ほど年上の永井さんと週に1、2回顔を合わせ、こんなふうに集中して対話をする時間をもった。


短いあいだのつきあいだったけれども、その対話の時間が、ひとりの編集者として、ひとりの人間として生きてきたその後のぼくの長い暮らしを、目に見えないかたちで支えてくれていると、いまは実感している。そして、面と向かって話していた時には十分に理解できなかったさまざまなメッセージの意味が、年月を経るうちに明らかになっていくようにも感じている。熱いお湯のなかで、工芸茶の茶葉が一枚一枚ほどかれて、知られざる花の色が姿をあらわすように。


「見つけましたよ」と、ぼくがその花の色を伝えたい詩人に、しかしもう会うことはできない。あの冬が終わって春が訪れたころ、永井さんはこの世を去ったのだった。





ぼくが、妻と幼い子とともに東京から神奈川県の三浦半島の町・葉山に引っ越したのは2007年。東京の出版業界や文化人の世界から思うところがあって少し距離を置きたくなり、フリーランスの編集者として、いくつかの出版社から本や雑誌を制作する仕事を請け負いながら生活し、自分の身の丈にあった表現として、サウダージ・ブックスというリトルプレスの活動をそこではじめることにした。


しばらくして、葉山からひとつ南の町で、妻とともに二間の小屋を事務所として借りることになり、デスクワークをしたり、友人と集まるスペースとしても使ったりした。そこは緑豊かな海辺の丘の中腹にあって、車も自転車も入れない小さな野の道が通じているだけ。しずかな環境と、ウッドデッキのある庭が気に入った。仕事帰りに、獣道を遠慮がちにひらいたような細くうねる道を、空を旋回するトンビになったような気分で海に下って歩くのが、毎日の楽しみだった。


引っ越した頃から、永井宏さんの存在は知っていた。同じ町に暮らし、WINDCHIME BOOKS という出版社を営むかたわら、アトリエでライティング・ワークショップをおこなっていて、そこには詩人を慕う若い表現者があつまっているようだった。


その10年ほど前に、葉山で永井さんが主宰していたSUNLIGHT GALLERYの評判もよく聞いていた。「生活する中で生まれるアート」を提唱した伝説的なスペースで、そこの活動をきかっけに誕生した鎌倉のカフェ・ヴィモン・ディモンシュや逗子の食堂 coya はどちらも地域の人気店だった( coya は2011年に閉店した)。


永井さんとの関わりの深いこうした店にかぎらず、葉山界隈のカフェなど入れば、かならずといっていいほどかれの書いた詩の本や編集したリトルマガジンが店の片隅にならんでいて、その影響を感じないわけにはいかなかった。


けれども、当時30代だったぼくは、永井宏さんの作品の良い読者ではなかった。リトルプレスを営む大先輩として尊敬する気持ちもあったが、若気の至りに近い反抗心もあったのだと思う。


永井さんが著作のなかでしばしば用いるキーワード、たとえば「愉快」や「ロマンチック」や「恋すること」にはまったくなじめなかった。それらは、ぼくから見るとコマーシャリズムに便乗するコピーのように感じられ、自分の文学観はそういうものではなく、もっと真面目で深刻な人生や社会への問いに根ざしていると考えていた。だから葉山に暮らしはじめた当初は、WINDCHIME BOOKS の本を読むことも、永井さんに会っていろいろ教えてもらおうと思うこともなかった。


とはいえ、東京のような大都市と違ってローカルはきわめて狭い世界で、お互いが知り合うのは時間の問題だった。共通の友人の主宰するビーチパーティで紹介され、町中で会えば挨拶をするようにもなり、そのたびに「アサノくんもさ、うちの若いもんと交流して一緒になにかやったらいいよ」などと声をかけられた。


「うちの若いもん」というのは永井さんの口癖で、そのうちかれが「若いもん」と主宰するポエトリー・リーディングに参加したり、『ボタンとリボン』という雑誌にエッセイを寄稿したりするようになった。それはそれで楽しい時間であり経験だったが、永井さんの世界に深入りするのをためらう気持ちもまだあった。


あるとき永井さんが、サウダージ・ブックスから刊行し、ぼくが編集した沖縄の詩人と世界の詩人の共著のシリーズの本を買ってくれたことがあった。そのうちの一冊のことは、「すごくいいね。ことばがまっすぐで、歌があって」とほめてくれた。しかしもう一冊のことは、アカデミックな内容が難解だし、作り手目線で編集をしていたら一般の読者はついていけない、と厳しい意見を言われた。「読んでもわからないって、さびしいことだよ」と。





そして2010年の冬。永井宏さんから「一度、じっくり話し合いたい」と電話があった。最初は意図がよくわからなかったのだが、気ままなフリーランスの自分には時間はたっぷりあり、断る理由はなかった。それから永井さんがぼくらの小屋を訪ねてくるようになり、毎回テーマのようなものを決めておしゃべりをするようになった。先ほど記したようなさまざまなことがらについて語り合ったのだが、よく覚えているのが「差別」というテーマだった。


永井さんは若いころ、雑誌『BRUTUS』の編集部で仕事をしていて沖縄取材をしたことがあったという。80年代の沖縄、1972年のアメリカから日本への「返還」から十数年がたったころ。ロックを中心にした音楽やピザハウスのようなレストラン、アメリカのポピュラーカルチャーの影響が色濃く残る世界に魅せられつつも、フェンスに囲まれた米軍基地の存在を目の当たりにして不条理を感じ、そのころから基地問題の報道には関心を持ち続けてきたそうだ。


ちょうどこの年の5月、鳩山首相がかねて表明していた普天間飛行場の県外・国外移転を断念し、辺野古周辺への移設を決定。日米両政府による沖縄の米軍基地問題をめぐる対応に永井さんはつよい憤りを隠さず、出口の見えない基地問題をはじめとする、日本社会に巣食うさまざまな差別の構造を論じ意見をもとめられた。


永井さんは、そのころ歴史家の網野善彦の著作を熱心に読んでいて、日本史のなかの被差別民のことにもさかんに言及をしていた。「若い連中もさ、こういうことを知っておいたほうがいいよね」と。


「生活する中で生まれるアート」をみずから提唱していろいろな活動をしてきたけれど、そうしたアートやものづくりのシーンでのいわゆる「暮らし系」「生活系」のブームはひと段落ついて、これからはより地に足のついた、歴史に根ざしたフィロソフィーが必要になるだろう——永井さんはそんなことを熱っぽく語りつづけた。そして、歴史という時には「負の側面」も包み隠さずしっかり見つめなければならない、とも。


永井さんの話を聞いていて、最初のうちは、沖縄文学などを積極的に紹介するサウダージ・ブックスの活動に話を合わせようとしてくれている、と考えたのだが、どうもそれだけではなかった。だからこちらも本気になり、「愉快」でも「ロマンチック」でも「恋すること」でもない、当時の永井さんが一心に考えようとしていたテーマに身を乗り出して耳をすまし、そこから生まれるヴィジョンを見逃さないよう目を見開いていた。


それとは別に、永井さんから言われたのは、ライティング・ワークショップを共同で行いたい、という提案だった。文章の指導や、まして詩のような創作の指導などしたことがなかったので即座にお断りしたのだが、「文章をあつかう編集者だったら、誰でもできるよ」と永井さんは食い下がった。永井さんのワークショップの受講者は、ほかならぬ永井さんの存在に魅力を感じるから参加するわけで、そこに自分が入り込む余地はないと固辞した。


その後もしばらくやりとりがあって、最終的には、ヌーベルバーグやニュー・ジャーマン・シネマなどのヨーロッパ映画を体系的に鑑賞し、ふたりでトークをする会を永井さんのアトリエで定期的に開催し、春から参加者を募ろうという話にまとまった。


しかしふたりで話している時も、町中ですれちがう時も、永井さんの体調はあまり良くないようにみえた。海辺の丘の小屋にやってくると、しばらく肩で息をしていた。年来の持病を抱えていることは知っていたが、不調の原因はそれだけではないようにも感じた。


永井さんに最後に会ったのは、近所のスーパーの駐車場だったと思う。見慣れた車があったので挨拶をしに行くと、いつものように、「うちの若いもんと、一緒になにかやったらいいよ」みたいなことを言って、車にもたれかかってニット帽の下でさびしそうに笑っていた。


春から始めようとふたりで企画していた映画鑑賞会は実現することはなく、結局、ぼくは永井さんの期待になにひとつ応えることができなかった。





「まだ、町全体が柔らかかったのだと思う。全ての道にアスファルトが敷き詰められるような頃になっても、庭にも路地にも土が見えていて、その匂いを感じながら、木々や住んでいるひとたちや、動物や、希望など、ゆったりと育たなければならないものが、みんなの時間と共に同化していた。」

  ——永井宏「夏の見える家」より


「蜘蛛の糸に吊り下げられた枝の十字架は、まだこれからの生を希求する気持ちの表れでもあったのだ。だが、それは風の中に消え、再び視線の先に現れることはない。これからの新しい時間が自分にもたらす事柄に向かって、戻れることのない自分を、これまでのようにいつまでも育てていくことしかなく、毎日の時間が続いていく。」

  ——永井宏「柿の木の十字架」より


永井宏さんの代表作のひとつ、葉山の暮らしをモチーフにした散文集『夏の見える家』を読むと、かれの創作上の重要なテーマの一つに、「時間」というものがあることがわかる。


「動物や、希望など、ゆったりと育たなければならないものが、みんなの時間と共に同化していた」、あるいは「戻れることのない自分を、これまでのようにいつまでも育てていくことしかなく、毎日の時間が続いていく」。こうした文章には、いかにも詩人らしい繊細な時間の捉え方が表現されていて、読者に対し、立ち止まって心を傾けることを静かにうながす。


そもそもタイトルにある「夏」も、永井さんが偏愛のまなざしを向ける特別な時間のあり方を象徴する、一種の詩のことばだと言える。「夏」をタイトルに用いた本を、永井さんは生前に3冊も刊行している。ほかの著作や詩集に目を通せば、「時間」のほかに「季節」や「永遠」など、関連する用語をいくつも見つけられるだろう。


「生活の中で生まれるアート」あるいは「ネオ・フォークロア」という旗じるしを掲げて永井さんが創作をし、またギャラリーやワークショップの活動を通じて守ろうとしたのはこの「時間」だったのではないかとぼくは思う。


日々の暮らしのなかでそのまま放っておいたら、前に進むことしか知らない社会の力や歴史の波に押し流され、一瞬で消えてしまうもの。たとえば家の居間に竹のカーペットを敷き、庭の鉢植えの枯れた花を片付け、友人と海辺に遊びに行くあいだ、ふとした瞬間にこみあげる心のつぶやき。そういう小さな声を表現につなぎとめ、同時代に生きるみんなで共有し、「うた」として未来に伝えること。


 新しい時間は新しい夢をたくさん与えてくれました

 大きく豊かで小さく果てしのないものを

 儚いということはなく、次々に手にしていけるものです

 でも、僕は知っています

 それでもまだみんなが忘れずにいることを

 だから、僕は見つめ続けています

 変わることのない光や風の中を

 そして、僕は待っています

 遠くの方からやってくるのを

 でも、最初にやらなくてはいけないのは

 まず自分が大きく口をひらくこと

   ——永井宏「うたをうたう」


「まだみんなが忘れずにいる」時間のなかに宿る光や風、人々が生きてきたひそやかな証をひとつひとつていねいに数えあげる営みにこそ本当に大切なことがある、と詩人である永井さんは言う。


そしてその先にある景色を、祈りにも近い願いを込めて「永遠」と呼んだ。「愉快」や「ロマンチック」や「恋すること」というキーワードもまた、この永遠につながる道に読者を誘うための、永井さんのとっておきの歌の扉だったのだろう。最近になってようやく、ぼくはそのことを素直に受け入れられるようになった。








先日、大阪に出張する機会があり、枚方市の星ヶ丘洋裁学校にあるSewing Table Coffeeまで足を伸ばした。郊外の高台にある住宅地の一角に、まるで森の空き地のような自然豊かな場所がぽっかりと広がり、歴史を感じさせる古い学校校舎の裏手にカフェがある。


「大阪に気持ちのいいところがあるからさ、機会があったら行ってみなよ」と永井さんはよく言っていた。星ヶ丘洋裁学校内にあるSewing Galleryは永井さんが発案して誕生したスペースで、みずからも個展やワークショップを定期的に開催するなど関西での活動拠点だった。Sewing Table Coffeeのオープンにも、関わっている。


雨上がりの草の香りがむわっとあたりに漂い、カフェにほかのお客さんはいない。しずけさの中で、サイフォンで淹れたコーヒーとトーストをいただき、店内の棚にある本のページをぱらぱらとめくるうちに、自分のからだのなかを流れる時間がゆったりしたものに変わっていくのを感じる。永井さんの言う通り、じつに気持ちのいい場所なのだ。


カフェ・ヴィモン・ディモンシュや coya、Sewing Gallery や Sewing Table Coffee のほかにも、永井さんの詩のことばや創作に触発されて、ショップやギャラリーや出版社を立ち上げて自分なりの表現の道を見つけた人は多いし、『歩きながらはじまること』の著者である西尾勝彦さんのように、ワークショップへの参加をきかっけに詩を書き始めた人もいる。


 勇気があったと思いますか

 経験はなくても知識はあったと思いますか

 季節のことを考えましたか

 時間のことを考えましたか

 言葉に無理はなかったですか

 自信とは別に自分が足りなかったことが

 何なのか考えてみましたか

   ——永井宏『恋することについて答えを出そう』より


永井さんの詩を読んでいて、気づいたことがある。永井さんの詩の多くは、何気ない日常から生まれたことばからなり、それは作者の側の思想を声高に主張しようとするものではなく、読者にやさしく問いかけ、読者がみずからの声で語り出すのを待つような佇まいをしているのだ。


そこで詩のことばは、語るよりもはるかに聞いている。ページにもたれかかり、笑顔でさびしさを隠すような表情をし、読者の内なる声に耳をすましている。


 聴こえてくる声の先に飾りが付いて

 僕の耳にもその飾りが踊りだす

 本当は、ちゃんとしゃべったものだけに伝わってくればいいのだが

 飾りはちゃらちゃら鳴って

 もう耳元からは離れずに

 気持ちの奥にまで入り込んで

 それでひとつの思惑が固まってしまう

   ——「聴こえてくる声の先に飾りが付いて」


世の中には、沖縄の米軍基地の問題を報道し、日本史のなかの被差別民の問題を研究する言論のほうが、暮らしや生活のこまごまとしたことを語ることばよりも、社会的な意義において格が高いという考え方があるだろう。ぼくも永井さんと最初に出会った10年前には、無意識のうちに、そうした考え方を当然のものとみなしていた。生活者としては、まだまだ未熟だったのだ。


だが、永井さんにとって、「まだみんなが忘れずにいる」時間に宿る小さな声を詩やアートで届けることは、ジャーナリズムやアカデミズムの言論とはちがうやり方で、個人個人の生き方を抑圧する力に屈しないための方法だったにちがいない。華々しく威勢の良い大きな声が張り合うマスメディアの世界にきっぱりと背を向けて、昨日と今日がつながる日々の暮らしに踏みとどまり、冒頭に引用した詩の表現を借りれば、「心の中の奥にある/小さく残った過去の音」に耳をすませることが、詩人なりのたたかいだったのだと思う。


こんなことを言うと、生前の永井さんであれば、「ちょっと難しく考えすぎだよ」と笑い飛ばし、照れ隠しをするようにバンジョーかマンドリンをつま弾き始めたかもしれない。


でも、もしぼくが、2010年の冬に詩人ふたりきりでことばを交わしたあの時間にもう一度帰ることができたら、ぼくはぼく自身のこの考えを、飾りのないぼく自身の正直なことばで、永井さんにまっすぐに伝えたい。そしてぼくもまた自分なりのやり方で、永井さんら先達たちが小さな声を尋ねて歩いた道を、いまたどり始めていることを。


話を聞いてもらいたい詩人は、手の届かない向こう岸へ旅立ってしまった。しかしぼくの手元には、永井さんが遺した20冊以上の著作や詩集があり、心の机にはかれから渡された宿題のようなことばがいくつも並んでいる。中断された対話を再開する手がかりは、そこにある。


「でも最初にやらなくてはいけないのは/まず自分が大きく口をひらくこと」。そのつもりで、ぼくは永井さんの本のページをくりかえしひらき、心の奥から聴こえてくるものにじっと耳を傾け、声の訪れを待っている。





参考文献


アノニマスタジオ「サンライト・ギャラリーと永井宏さんとの活動について

丹治文彦/選・文「works —永井宏の雲—」『ボタンとリボン』Vol. 5


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