ことばが必要だと思った。
マスメディアやSNSを通じて拡散され、あっというまに消え去る情報ではない。世界について一人ひとりの人間が何かを感じ、想像し、考えてきた「時間」という重みをもつことばが必要だと、ぼくは思った。それは、むずかしい哲学や思想である必要はない。時間とは日々の暮らしのことで、日々の暮らしから生まれた嘘のないことばが必要だと思った。
新型コロナウイルス感染症の世界的流行がおこり、そして政府による緊急事態宣言が発令された二〇二〇年四月からの約二か月間、内に引きこもる生活がつづいた。感染症対策として社会のさまざまな場面で「自粛」が要請され、ひとと触れ合うことはおろか、会って話すことすら困難になった。大勢の人びとの集まる都会へ不要不急ではない外出をすれば、帰宅後に家族との距離のとり方にすら戸惑う。この間、メディアは感染者数や死亡者数など、コロナ禍をめぐってリアルタイムで更新される数字に占拠され、見ているだけで息が詰まりそうになった。
次々に押し寄せる情報や数字に心が流されないためにことばが必要だと思っても、先行きの見えない日々のなかで落ち着かない精神状態では、分厚い本を読む気にはなれなかった。そのかわり部屋の書棚にならぶ国内外の友人や知人、あるいは未知の作家が制作した、飾らない装丁の Zine やリトルプレスの小冊子が語りかけてきた。
テレビやインターネットから離れ、ぼくは指先で紙の感触を確かめながら、それらのページをあらためてめくりはじめた。暮らしの日記、旅行記、ものづくりの記録。自分ではない他者の小さな声。そこにあるのは、現実を乗り越えるための大きな物語でも深遠な知恵でもない。しかし固有の時間を生きるひとりのことばにふれることが、救いになった。信じるに足る重みが、ある温もりとともに、そこにあった。
固有の時間を生きるひとりのことば。それを自分自身の内にも探してみようと思い立った。すると、旅と読書の記憶に行き着いた。ことばの通じない異国を旅すること、知らない内容の書かれた本を読むことは、慣れ親しんだ世界から切れて、ひとりきりになるさびしさをともなう。しかしそのさびしさと引き換えに、ぼくは未知の世界へつながる喜びを得たのだった。
旅と読書を通じた、「外」なるものとの濃密な接触。それは自分が自分であることをいまも深いところで支える忘れがたい体験だった。それについて感じ、想像し、考えてきた時間に根をおろす嘘のないことばを、ひとりきりになるさびしさを生きる誰かと共有したいと思った。遠くへと、未来へと届けたいと思った。そんな願いから、この小さな本のアイデアが生まれた。
本書に登場するすべてのひと、本作りを支えてくれたすべてのひと、そしていまこの小さな本とともにあるすべてのひとに感謝します。
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随筆集
読むことの風
2020年10月21日 初版第一刷発行
著者 アサノタカオ
発行 サウダージ・ブックス
装丁・組版 納谷衣美
編集 A.N.
装画・本文イラスト nakaban
印刷・製本 株式会社イニュニック
仕様 46判変形(幅122mm*縦188mm)/128ページ/並製
定価 本体1800円+税
*2020年10月下旬より、サウダージ・ブックスのオンライン・ショップおよび直接取引店で販売します。
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