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  • 執筆者の写真Saudade Books

ぼくらの詩(8)




アサノタカオ



詩人の庭——永井宏が永井宏になるまで(1)



ぼくらの詩(6) 聴こえてくる声を待ちながら」に引き続き、永井宏さんの作品と人生を、“詩人”としての顔にスポットライトをあてながら読み解くちいさな評伝を不定期連載します。





1960年ごろの世田谷の少年時代



のちに“詩人”となる永井宏は、1951年、東京都世田谷区に生まれた。父、母の両親のもとに、きょうだいは姉と兄がいる。つまり彼は末っ子で、小学生のころはおばあさん二人(ウメとハナ)と同居をしていて、可愛がられたようだ。道で誰かとすれ違えば、かならず挨拶を交わすような小さな町。木造の平屋の前に小さな庭があり、そこには父が世話をする柿の木、桃、ぶどう、無花果、見知らぬ南方の木があったという。


1964年、中学一年生のときに開催された東京オリンピック以前の町の風景を、永井はいくつかの著作でノスタルジックに回想している。


「それまでは東京といっても、畑も林もたくさんあって、鶏が軒先を走り回っている、のんびりとした時間のなかで暖かい陽射しがどこにも満遍なく降り注いでいるようなところだった。

小学校に入学した頃から始まった道路工事は、路面電車が走り、だらだらと商店街が続き曲がりくねった古い街道を迂回短縮するためのバイパスで、片側二車線の一直線に続く弾丸道路と呼ばれる新たな幹線道路でもあった。そしてその道路が完成する頃には、いままで沼や林や、野球場や広い運動公園があった場所もオリンピックのための総合競技場として生まれ変わり始めていた。」

  ——永井宏『カフェ・ジェネレーションTOKYO』(河出書房新社)


「のんびりとした時間のなかで暖かい陽射しがどこにも満遍なく降り注いでいるようなところ」というのは、いかにもこの詩人らしい表現だと思う。永井宏の回想によれば、東京オリンピックを契機に、町内は道路で分断されて自分たちの遊び場が失われ、近所に住んでいた友だちが平屋の木造住宅から新築のモダンなアパートメントへと引っ越していった。そして地域に都会化の波が一気に押し寄せ、まわりの畑や林が宅地用として造成され、それまでは田舎っぽさを残していた渋谷の周辺にも人口が急増し始めた。


編著『ロマンティックに生きようと決めた理由』に収録したみずからのエッセイで、永井は「生まれ育った世田谷という地域が好きだった」と臆面もなく告白している。五輪景気以降、高度経済成長の好景気が続いていた時代だ。彼は急激に変容する地元の町の風景のなかで失われていったものについて、こうも記している。高校生になり、少し背伸びをして近所の喫茶店通いをしていたころの話だ。


「どちらも(生まれ育った家も喫茶店も)、戦後すぐに建てられた木造の家で、喫茶店はそれを改装し酒落(しやれ)た雰囲気でコーヒーの香りの中、自分たちの好きな音楽を流していた。僕らは学校をサボり、午後の陽射しの中、閑散とした坂道を歩き、その店のドアを開け、日がな一日好きな音楽を聴いていた。また、家でも同じように、自分のぺースで物事を観察しながら生きていることを実感できた。近所のひとたちの生活が見えることで、似たような生活環境であっても個々に趣味も生き方も違うということが判ったし、その中で自分の過ごしている時間を恥ずかしがったり、自慢したりもできたからだ。

まだ、町全体が柔らかかったのだと思う。」

  ——永井宏『夏の見える家』(角川書店)


詩人のノスタルジックなまなざしは、この「町全体が柔らかかった」時代にゆったりと流れていた「時間」への強いこだわりを見せる。おそらくそれが、永井宏の詩と人生が問うものを読み解くときのひとつの鍵になるだろう。先ほどの『夏が見える家』からの引用には、さらに以下のような描写が続く。


「全ての道にアスファルトが敷き詰められるような頃になっても、庭にも路地にも土が見えていて、その匂いを感じながら、木々や住んでいるひとたちや、動物や、希望など、ゆったりと育たなければならないものが、みんなの時間と共に同化していた。」

  ——永井宏『夏の見える家』(角川書店)


そんな町のおだやかな空気の中で、少年時代の永井宏の心を虜にしたのが音楽と水泳だった。戦後すぐに建てられた自宅には音楽がつねに親しいものとしてあり、はじめてふれた楽器は母親の箏。その次は幼稚園にあったピアノ、やがて兄の影響でギターの練習をはじめる。ヤマハのFG180にふれた瞬間、「自分にも、どんな音楽が好きなのか、そのときはっきりわかった」と永井は言う。


小学生の頃からラジオで洋楽番組を聴き、ロックンローラーに憧れていたものの、エレキ・ギターではなく、アコースティック・ギターでフォークやカントリーの曲をひとり弾いていた。ビートルズやローリングストーンズの洗礼を受けながらも、ボブ・ディランなどフォークソングも好きで、高校になると軽音楽クラブに参加した。


姉に頼まれてはじめて買いに行かされたレコードが、アンディ・ウイリアムスの「ムーン・リバー」のドーナツ盤ということまで彼はよく覚えていて、小学六年生の時には、映画「ダンディー少佐」を東急文化会館の渋谷パンテオンで見終わった後、主題歌(ミッチ・ミラー合唱団)を買ったそうだ。


また本人曰く、「小学校四年生のときに突然泳げるようになり、クラスで一番長い距離を泳げたので競技会に出ることになった」。以降、選手として大会で入賞するほどになり、中学生、高校生になっても水泳は続けた。


幼少の頃からの音楽への親しみは、のちにフォークミュージシャンの中川五郎とのバンド20th Centry’s(1984〜87)やポエトリー・リーディングの活動につながっていった。また少年時代からの水泳の経験があったからこそ、ヨットやウィンドサーフィンなどマリンスポーツに打ち込むようになり、後年、三浦半島の海辺の町に移り住むことになったのだろう。


そして音楽と水泳に額を火照らせた少年の心のなかで、ゆったりと育っていった「憧れ」のイメージは、やがてアメリカ西海岸カリフォルニアの風景に投影されることになる。(続く)





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