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ぼくらの詩(7)


アサノタカオ



読むことの風





半年ぶりに、沖永良部島に渡った。


お盆明けの島は、ちょうど夏祭りの日だった。島の西南端にある知名町のメインストリートである「商店街通り」は、ふるさとを離れて暮らしている親類たちがいっせいに帰省しているということもあり、日暮れ前から大いににぎわっている。島にはもう何度も通っているが、これほどひとで埋め尽くされている通りをみたのは、これがはじめてだった。


沖永良部は、奄美と沖縄のはざまに浮かぶ隆起珊瑚の島だ。お盆の期間には、アダンの防風林の並ぶ海辺の墓地で、集落の人たちは、地中になかば埋められた厨子甕の前の白い砂地に陣取って宴を開く。そして、親族一堂で来訪するご先祖さまの魂をごちそうで迎え、ふたたびあの世へ送り帰すという。


死者のための心づくしの儀式を終えたハレの日の通りでは、浴衣姿のご婦人方の練り歩きがあり、若い人たちの仮装パレードがあった。軒をつらねる屋台がおいしそうな湯気や煙を上げ、他愛のない玩具を並べる露店やボール投げのゲームに、日焼けした子どもたちがむらがっている。カラオケ大会があり、ロックバンドの路上ライブもあった。沖縄・那覇からの船内でみかけた、パンクファッション風のかわいらしい女の子たちが、幼なじみらしき青年の汗ばむ背中をばしんとたたいて、はしゃいでいる。花があまやかな蜜や匂いをはなつように、ふだんはものしずかな島人たちの感情が路上にあふれかえっている。気前よくふるまわれる島酒の黒糖焼酎を一杯もらって、ぼくはむわっとしたひといきれのなかを、いい気分になってそぞろ歩いていた。


「もう一杯、いかがですか」とNさんの大きく分厚い手が、プラスチックのコップを差し出してくる。黒糖焼酎の蔵元の元社主で、郷土研究会の会員であるこのひとに会うために、ぼくは島にやってきたのだった。すでに家業を甥にゆずって引退した旧知のNさんから、前回の旅行の際に、「この島にサロンをつくりたい」という夢を打ち明けられたことがあった。太平洋をみおろす眺めの良い丘に建つ自宅のログハウスを開放して、島民と島外の人びとが交流し、新しい文化を共同で創造していくような場をつくりたい、とそういうのである。


ぼくは島に滞在するたびに食事に宿泊に、とお世話になりっぱなしのNさんの熱意にこたえるために、自分がもっている蔵書を思い切ってすべて寄贈することを決心した。海外文学をふくむ文芸書や詩集、現代思想、文化人類学や民俗学、かつて自分が旅したブラジルをはじめとする南米関係の本や写真集など、単行本・文庫本・新書をあわせておよそ2000冊弱の本。それをNさんがこれまで集めてきた、奄美と縁の深い文学者の島尾敏雄・ミホ夫妻の作品集や琉球弧の郷土資料を中心とする蔵書にあわせて、あつまる人びとが自由に本を利用し、語らいをつうじて知恵や物語を分かちあう「本のサロン」を島に設けてはどうだろう、とひらめいたのだ。


電話でこのアイデアを伝えるとNさんは喜んで、知名町の役場や図書館の方々にも相談しつつ、沖永良部島への蔵書移転の話はとんとん拍子で進んでいった。日々の暮らしに役立つ実用書や娯楽本はほとんどなく、難解な人文書も少なくないため、寄贈に際して不安に思うところもあった。ところが町の予算ではなかなかこのような図書は買えないということで、かえって島のみなさんに感謝してもらえたようだ。学術的な書物は郷土史研究会の会員で関心をもつ人がいるだろう、海外文学の本などは島にある高校の図書部の生徒にも閲覧してもらうといいのでは、と早速いろいろな意見が出た。本のサロンは、Nさんの自宅2階に開設することが正式に決まり、ぼくのほうは気持ちに勢いがあるうちに1か月ほどで急いで蔵書を整理し、段ボール箱数十個ぶんの本を島に送ったのだった。


今回沖永良部島にやってきたのは、送った本の整理をするためだった。昼過ぎに島について、さっそくNさんの自宅で掃除をしたり段ボール箱から本を出したりした。午後のあいだ汗を流して作業をした後、せっかくだから祭りを見に行きましょうか、と夕涼みもかねて町へ出かけることにしたのだった。


珊瑚岩の石垣の道をゆく、半袖半ズボン姿のNさん。豊かな白髪で背は高くないが、肩幅が大きく骨太な体格だ。もう70歳近くだと思う。ふだんは口数も少なく、おだやかな性格の島の紳士という印象をもっていたが、昼の作業中に「むかしはヒッピーだった」と聞いてびっくりした。


Nさんは、高校から鹿児島に出て九州大学の工学部を卒業し、いったん就職したあと同じ大学の教育学部に復学した。それは1968年のことだった。激動の時代のこの年、九州大学に米軍のファントム偵察機が墜落する事件が起こる。建設途中の大学計算センターの鉄骨が醜くひしゃげ、そこに突き刺さるファントム機を中心にして夜空にはげしい炎と黒煙が吹き上がった。その無残な光景は、Nさんの若い情熱と不条理への怒りを一気に目覚めさせた。以降米軍抗議デモへの参加をきっかけに、全共闘運動にのめりこみ、バリケードに立てこもる時期もあったが、やがて先鋭化する運動から離れていった。「内ゲバ、暴力がいやだったんですよ」と静かにふりかえる。それからしばらく日雇いの労働をして各地を転々とし、夜は映画館やロックカフェにいりびたるヒッピー風の暮らしをしていた。40代を前にして、家業の蔵元を継ぐために島に戻った——。


祭りの空気もひととおり冷やかしたところで、ぼくらは海岸のほうで休むことにした。島酒の酔いでほてった額を、太平洋から吹き上げる潮風が優しくなでてゆく。商店街通りから海沿いのホテル前の広場につづく坂道を下るNさんが、ふと足をとめた。追いついて、横目でちらりと顔を見てみた。太い眉の下で目を細めて、かなたの水平線へ憂いを堪えたまなざしを投げかけている。Nさんはときどき、ごく自然なふるまいとして、遠くをみつめながら、そんなふうにぼんやりと押し黙る時を過ごすことがあった。


そのとき、いったい何をおもっているのだろう。視線の先をたどると、夕まぐれの空に、まっしろな月が浮かんでいる。ほう、とフクロウが鳴く声を聞いたような気がした。盛夏の島で、Nさんと肩を並べて風に吹かれながら、どういうわけか、ぼくはたまらなく懐かしい気持ちになっていた。





「5月28日、サンパウロ州のグアラサイでわたしたちの敬愛するワルテル・ユキオ・ホンマが亡くなりました」


都会のアパートで受信した電子メールに記された、事実を簡潔に伝える文面を眺めてもすぐには現実感がわかない。2002年、ブラジル日本人移民の古老ワルテル・ユキオ・ホンマはこの世を去った。ワルテル・ホンマと死、しかし頭のなかでこの二つの語がなかなか結びつかない。新生農場というサンパウロ州奥地にある共同農場でひっそりと暮らしながら、まわりのブラジル人や訪れる旅人から「知恵の人」として慕われた年老いた語り部。彼の日々の思索を奮い立たせる情熱の火が絶えることなど、八十路を目前に控えた実年齢を知らないわけではなかったのに、まったく考えもしなかったのだ。


サンパウロの町から長距離夜行バスに乗って、およそ9時間。深海のような闇のなかを夢うつつの状態で潜りぬけ、小さな田舎町の発着場で、車体から吐き出されるように重いリュックを背負ってよろよろとバスを降りる。すると、農場地帯のなだらかな起伏の輪郭を、淡い何層もの紫色に染めあげる信じられないほど美しい朝焼けが、疲れきった旅人の心をゆっくり溶かすようにして出迎えてくれるのだった。田舎にひきこもるワルテル老人を訪ねるために、いったい何度このあざやかな朝の風景を目撃したことだろう。ブラジルのある研究所で文化人類学の勉強をしながら、ぼくはそんな旅を続けていたのだった。


かつて、1920年代に日本からブラジルへ移民したキリスト教社会主義者の一団が、南米の広大な原生林を開拓してサンパウロ州奥地に入植し、理想の農場コミューンを建設しようとした。5歳の頃ブラジルに渡ったワルテル・ホンマはその一派の生き残りだった。青年時代にたった一冊、移住を決断した親たちが柳行李に詰めて持ってきたルソーの『エミール』を熱読したことはあったが、少ない富を平等分配する清貧の共同生活では本を買うお金もなかった。書物からも祖国からも遠く離れ、日々農作業や牛の世話をしながら、たった一人で「世界とは何か」について思考しつづけていた。驚くほどの記憶力と語り部としての類い稀な才能をもつこのワルテル老人から、ぼくは農場に滞在するたびに、朝から晩まで聞き書きを行った。


晩年のワルテル・ホンマは、南米インディオの世界観や熱帯雨林を保護する環境運動についてしきりに思いをめぐらせていた。「平等分配」の理想のもとに異国の大地に根を下ろそうという移民としての生き方の土台を、先住民の神話が伝える贈与の精神や、持続可能な自然との共生の教えに求めようなどとする変わり者は、ブラジル日系社会広しといえどもワルテル老人ひとりだけだったと思う。彼にとっては渡泊以来はじめての遠出の機会となった、アマゾンの森に生きるスルイ族の村を仲間と訪ねた旅。農場を訪れる者にきまって語り聞かせたそのときの忘れがたい体験から、人間と自然が、そして人間と人間が惜しみなく何かを贈りあう関係をもとに、あたらしい共同体の仕組みをつくることはできないかという問いをめぐって数々のユニークな思いつきが生まれた。それを飾らない移民ことばで古老が語りだす時、聞き書きをするぼくの興奮は頂点に達した。彼こそ、古い日本語を使えば、正真正銘の「世間師」だった。 


農場ではテレビを見ないし、もちろんインターネットはつながらない。情報文化とは無縁の静かな生活だ。けれどもワルテル老人は戦前移民にしては珍しく完璧なバイリンガルで、また彼が生来もつ旺盛な好奇心も手伝い、近所の貧しい農夫から放浪するヒッピー、都会の大学教授まで実にさまざまなブラジル人や外国人と親しく交流し、外の世界と豊かにつながっていた。彼らとの世間話や、町の商店が好意で届けてくれる週遅れのポルトガル語新聞から、ニュースや噂の背後に隠された世界の「いま」を瞬時につかみとる耳と目をもっていた。そしてそれを、移民生活の歴史と、土や動植物にふれる生活体験に照らし合わせ、たったひとりで牛小屋で哲学を実践していた。「生き字引」という言葉があるが、まさにそう呼ぶにふさわしい、本のない世界で自らの体を一巻の野生の書物と化した知恵ある古老だった。


「今、世界が大変なことになっていますねえ。こんどアンタがこっちに来たら、九・一一 の問題について、いろいろ議論したいですなあ」と電話口で語るちいさな声が、ぼくの聞いた古老の最後の肉声になってしまった。


訃報に接して数か月がたって、ようやく亡き古老の墓参りをしに、ぼくはサンパウロ州奥地のグアラサイへ出かけることができた。


旅の荷物を背負ったまま、農場の集会所をかねた共同食堂の板戸をぬけ、悲鳴のようなきしみをあげるいつもの長椅子にまず腰掛ける。一枚板の木彫りの食卓のむこう側に、しかし語り部の古老のすがたはもうない。


「ドトール(医師)がオペラ(外科手術)して、おなかをぱっくり開いたときにはね、もう手遅れで。こりゃあダメだって、すぐに、一度開いたおなかを糸で綴じちゃったって……」。冗談まじりにワルテル・ホンマの最期を語りながら、顔では笑う古老の妻、二世のヨシコさんの瞳がだんだん潤みはじめるのに気がついて驚いた。


以前、ある冬の日のこと、農場の食卓を借りて調査の資料を整理したり、せっせとノートに書きものを続けるような作業の合間に、ぼくはしばしば共同食堂のわきにある台所(ルビ=コジンニャ)に行った。そしてかじかんだ手を、煉瓦造りの焜炉の火であたためながら、家事をするおばあちゃんたちと談笑した。そんなときぼくは、よくヨシコさんからこうからかわれたものだった。ウチのひとのあーんな話、ぜんぶメンチーラ(嘘っぱち)よ、口から生まれたみたいなジイさんのたわ言ばっかりきいてたら、そのうちお尻に根っこが生えちゃうわ! と。おしゃべりで、冗談好きで、皮肉上手の現実家。そういうヨシコさんが、悲しみをあらわにして墓参のために訪れたぼくに深々と頭を下げるすがたが、かえってこちらの胸を苦しく締めつけるのだった。


午前9時30分、奥地の農場のいくらか早いアルモッソ(昼食)の時間を告げる角笛の音が、みわたす限り遠くの敷地までひびきわたる。労働着そのままの老いた共同員の人びとが、ひとりまたひとりと食堂に集まりだす。フェジョン(煮豆)とご飯、キャベツの炒め物、カボチャの煮つけ。菜食中心の献立。この日はおばあちゃんたちが五目ずしも炊いてくれた。遠方から訪ねきた日本人の青年をねぎらう、精一杯のご馳走だ。食事のあと、農場に暮らす牧師の先生の案内でグアラサイ市の共同墓地へむかった。「あたしは、お墓には行きませんよ。絶対に行きませんよ」というヨシコさんのかたくなな態度がますます痛まし

かった。しかしぼくらが農場のトラックに乗り込もうとすると、いつのまにか庭のどこかで摘み取ってきた色とりどりのちいさな花束を、なにもいわず窓から差しいれてきた。


墓守りの男に土色の門を開けてもらい、すこし緊張した心持ちで敷地に足を踏み入れる。ブラジルの黒い聖母、アパレシーダの像が死者を見守るように鎮座する礼拝堂を横目で眺めて通り過ぎ、雨の気配をおびた生暖かい風を浴びながら、墓地の奥へと案内された。赤土の上に整然と横たわる、薄茶色の御影石で作られた簡素な長方形のお墓。その前で牧師の先生がひざまずき、しずかに胸の前で十字を切った。ぼくは、無言のままそこに花束をそっとのせた。墓石のあたまのほうには、Wartel Yukio Honma 12/07/1921—28/05/2002、と手書き文字の記された板木の十字架が、さびしげにぽつりとたっていた。


墓地から新生農場にもどると、ワルテル・ホンマがつつましい生活を送ってきた小屋の寝室に、妻のヨシコさんの招きではじめて案内された。農場の共同食堂や牛小屋で話をすることはあっても、ワルテル老人がぼくを自室に招くということはなかった。


ひとりの老移民が思索の時を過ごした小部屋。湿った土の匂いのこもる薄暗い室内には、清潔なシーツの敷かれた粗末な寝台とちいさな文机だけが彼の生前そのままに置かれていた。寝台の脇の壁には手製の棚がしつらえてあり、武者小路実篤の『空想先生』の古ぼけた単行本と、ぼくが以前、久しぶりに日本語の本が読みたいという彼にプレゼントしたソロー『森の生活』の文庫、そしてポルトガル語では数冊の農業書や熱帯有用植物の図鑑がならべてあった。そこには、何枚かの手紙と彼があつめたたくさんの新聞の切り抜きも無造作にしまわれていた。


ついで、何気なく文机に視線をおとすと、ボールペンとともにブラジルの全国紙「オ・エスタード・ジ・サンパウロ」の古新聞が整然とおかれているのに気づき、ぼくの目はその紙面にしばらく釘づけにされた。よくみてみるとそれは、12月6日付け国際時事欄、「アメリカのアイデンティティの精神を具現する2本の尖塔」と題された崩落間際のWTCの写真を掲載した特集記事だった。


ブラジルはサンパウロ州奥地の日系共同農場という忘れられた世界の片隅で、ワルテル・ユキオ・ホンマは2001年9月11日以後の世界にむけていったいどのようなことばを、声を、生涯の最後に発しようとしていたのだろう? 新聞の黄ばみはじめた見開きページは、中断された時の残した不気味に押し黙る気配を辺りにただよわせながら、しかしもはや何ごとかを主張することもなく、ただ冷たくなって打ちひろげられていた。





沖永良部島のNさんを「古老」と呼ぶのは年齢的にまだすこし早いと思うが、ぼくが深くおつきあいをするようになったのは、彼のなかにブラジルのワルテル老人の面影をみているからかもしれない。苦労の多い地味な手仕事に生涯を費やした人に特有の寡黙さの裏側に、理想主義的とも言える若々しい情熱と世界への純粋な好奇心を内にひめているところが、どことなく似ているのだ。


ブラジルのワルテル・ホンマが、白の木綿シャツとスラックス、そして足元には泥だらけのゴム長靴といういつもの出で立ちで、周囲の土地を一望のもとに見渡すことのできる牧場内の小高い丘に立っているのをよくみかけた。ぼくは彼のもとに歩み寄って、同じ風景を黙ってながめるしずかな時間が大好きだった。ワルテル老人もまたNさんとおなじように、額に手をかざし、赤土の道がうねるようにしてのびてゆくずっとむこうの地平線を、灰色ににごった目で陶然とみつめる「はるかなまなざし」の持ち主だった。


夜の島の海岸前広場で、Nさんはいつのまにか甥一家の幼い子どもたちに囲まれていた。優しく笑いかけて、大きな手で孫のような少年少女らの頭をくしゃくしゃにしている。ぼくは、Nさんと子どもたちとの大切な家族の時間に立ち入ることを遠慮した。月明かりがあまりにきれいなので、もう少し島の散歩をつづけることにした。夏の夜は暑い。足は自ずと、「暗川(くらごー)」と呼ばれる水場にむかっていた。


町から歩いて30分ほどの距離にある集落の暗川は、川というよりも深い鍾乳洞の底に湧く泉で、そこはかつて人びとが日常的に生活用水を汲み、洗濯や水浴びをする場所であると同時に、祈りのための神聖な水の空間でもあったという。ぼくはゴム草履を脱いで裸足になり、夜露に濡れる羊歯や夏草の生い茂る急な土の坂道を10メートルほどおりていった。ひんやりとした空気がきもちいい。まっくらな闇の奥で、からからと鳴る精霊の足音のような珊瑚岩を打つ水のせせらぎがひびく洞内へは、さすがに入る気にはなれなかった。それでも、虫の鳴き声が深々とふりつもる暗川の入り口の静寂は、野の翳に息を潜める何ものかへの畏怖の念を抱かせるに十分だった。ふと頭上を振り仰ぐと、侵入者の存在に驚いた無数の蛍が草むらから飛び出し、お尻の光を明滅させながらゆらゆらと空に昇ってゆく様子が、目にはいった。この世のものと思えない、美しく崇高な闇夜の光の情景に、おむわず息をのんだ。


ぼくは草地に腰を下ろして、舞い飛ぶ蛍たちを眺めつづけた。それは、お盆の季節に島を訪れた何百、何千もの懐かしい死者の鬼火が天界へ旅立って行くようでもあり、群島の地に穿たれた鍾乳洞の泉という、地球そのものの瞳が、夜空に白い涙をそそいでいるようにも思えた。なにか人間個人の時間を越えた澄み渡る悠遠の記憶が、自分のなかを満たしていって、間欠泉のように高々と吹き上げていくような感じがした。


ブラジルの奥地で9・11以後の世界をたったひとりで思考しつづけたワルテル老人の貴重な教えを聞き逃したことを、ぼくは心の底から後悔していた。彼から聞き出したい話は、まだ山ほどあった。学びの道の途上で突然この古老の訃報に接したじぶんにとって、喪失のショックはあまりにも深かった。だからそれ以来さらに人類学の勉強をつづける気力を失い、しばらくしてぼくは三年におよぶブラジル滞在を引き上げ、学問の生活に別れを告げた。そして日本に帰国して、ブラジルでフィールドワークをしていたさいに大切に持ち歩いた何冊もの大学ノート、報告書や論文、日本語やポルトガル語で書かれた調査資料の束を、すべて自宅隣の空地で燃やしてしまった。以来、部屋の本棚にならぶ蔵書を見ても、虚しい気分がつのるばかりだった。本を読むことへの情熱が一気にさめていった。そこには、ぼくがこの世に存在する書物のどの一冊よりも心から読みたいと願う、ワルテル・ホンマの最後のことばがどこにも書きしるされていなかった。


それからまた何年かたって、今回沖永良部島に蔵書をすっかり寄贈しようと思ったのは、Nさんとのつきあいから生まれた単なる思いつきからでもないし、離島の文化振興に役立ちたいなどという慈善の心からでもなかった。不要な本を処分するというのともちがう。ぼくは南海の島へ本をすべて放擲してみることで、むき出しの裸の状態で、もういちど「読む」という行為を深く問い直してみようとしているのかもしれなかった。読むことの風が、ふたたび自分のもとへめぐってくることはあるのだろうか。この世界から消えてなくなり、決定的なかたちで読み損ねてしまったことばを、失われてしまった書物を読むこと。もう聞こえない声に、耳を澄ませること。そんなことは、どうしたら可能なのだろう。潮が満ち、潮が引く。日がのぼり、日が沈む。懐かしい死者がかえってきて、また旅立つ。そんな永遠に回帰する時のめぐりのなかで、自分たちの来し方と行く末を同時に透視するような、Nさんの、そしてワルテル老人のあのはるかなまなざしに、問いを開く鍵があるような気がした。


湿り気を帯びた亜熱帯の空気が、重くのしかかってくる。記憶の蓋がそっと開かれる季節の島で、時間の流れがみずから歩みを止めるように、だんだん緩慢になってゆくのを汗ばむからだでじっと感じていた。「ホンマさん――」と虚空にむかって、ぼくはつぶやいてみた。緑の崖からぶらさがる巨大な鳳尾シダの群れが、夜の空気に触れてかすかに揺れている。頭上の闇のなかで乳白色にまたたく無数の光たちに目をみひらきつつ、ことばのむうから、声のむこうから、風に乗って沈黙の教えが訪れるのを、ぼくは何かに祈るようにしてじっと待ちつづけていた。





編集部註

本稿は『本の島』vol.1より転載しました。



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