沢木耕太郎著『深夜特急』
ユーラシア大陸をバスで横断した沢木耕太郎著『深夜特急』(新潮文庫)は、沢木の仕事のなかで、最も人口に膾炙した作品であるために、沢木=旅の人というイメージが、世間一般に植え付けられてしまった。
しかし、これは沢木にとって、ある種の不幸なことであると僕は思っている。それは、村上春樹を『ノルウェイの森』だけで語るのはちょっと困る、と考えてもらえるとわかりやすいのではないだろうか。
沢木と言えば、何よりも、1979年に大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した『テロルの決算』であり、多少、ノンフィクションを読んでいる人ならば、そこに異論を挟む人はたぶん、いないだろう。その他、プロボクサー・カシアス内藤の生き様に、自ら関わり合い取材していく『一瞬の夏』が次点であろうか。『深夜特急』はその次くらいに語られるものという気がする。あくまでも僕の主観であるが。
『テロルの決算』では、三人称でのニュージャーナリズム的手法の限界に挑戦した。『一瞬の夏』では、逆に、一人称で、自分が見たことしか書かないという方法で、リアリティを追求した。『深夜特急』は、人間が持つ旅への本能を、喚起させることに成功したが、方法論的な実験は特にない。そういった意味で、沢木の作品のなかでは、地味なほうだと言える。なので、沢木=旅という図式が独り歩きすると、ちょっと認識を誤るのではと思うのだ。
まあ、そんなかたい話はそれは置いといて、時代は変わった。インターネットがもはやここまで発達している世の中にあっては、『深夜特急』を、旅の情報元として読むという人など皆無に等しいだろう。旅そのものの方法が変わってしまったのだ。
僕自身もバックパッカーなのだが、ちょうど、インターネットが普及する過渡期を、旅をしていくなかで体験した。何が一番変わったかというと、コミュニケーションが変わった。圧倒的に人と話さなくなった。みんなずっとパソコンや携帯を見ている。たぶん、本当はみんな人と話したいのだろうけど、インターネットで調べたらあらゆる情報が載っているので、キッカケが作れないのだ。
道を聞くのもグーグル・マップで事足りてしまうし、ホテルを探すのもネット予約のほうが安い。それでは現地の人と話す機会もない。何をするにも、すべて事前にネットで調べてある程度予習してから行く。はじめから安全が保証されているディズニーランドのジェットコースターと変わらない。
僕は、旅行と旅の違いを基本的にこう解釈していた。旅とは、「未知との遭遇」、旅行とは、「追認行為」。しかし、本来は、「未知との遭遇」であるはずのバックパッカーの旅さえもインターネットの出現によって、「追認行為」をするようになった。
『深夜特急』はインターネット以前の最後の「旅」を記録した旅行記として、とても貴重なものだろう。どんどん世界が小さくなって、冒険しつくされて、一瞬でどこにでも繋がれるようになった世界で、僕たちは、『深夜特急』を通じて、知らないということの価値を知るのだ。
プロフィール
神田桂一(かんだ・けいいち)ライター、編集者。1978年、大阪生まれ。東京・高円寺在住。著書に『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』(菊池良との共著、宝島社)。ウェブメディア『DANRO』で「青春発墓場行き。」を連載中。現在、初の単著を執筆中です。
編集部註
関連する記事として、神田桂一さんの「村上春樹と沢木耕太郎」もぜひお読みください。
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