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ぼくらの詩(5)

最終更新: 2019年3月2日



©Shintaro MIyawaki


アサノタカオ



蔵書返却の旅——塔和子さんのこと





 私は言葉の墓だ  私の血と肉をくぐって  言葉が甦ってゆくのを眺めながら  私の土壌は果てしなく広がり  私の骨が言葉に喰い入ってゆくのを見送ろう   ——塔和子「墓」より


2014年3月のはじめ。ぼくらは知人の小型旅客船をチャーターして、港を出発した。季節は春だが、船尾の甲板に立って顔に受ける朝の風はまだ冷たい。波を切るたびに、船は大きく縦に揺れる。ぼくらは船室にもぐりこんで座席で肩を寄せ合い、到着の時をしばし待つことにした。


10キロほどの航海だろうか。出発から30分ほどで、緑に覆われた小島がみえてきた。船はスピードを落としてゆっくりと旋回し、港にすべりこんでいく。特別な許可を得て、定期便の官用船にぴったり横付けするかたちで停泊した。係留用のロープをつなぎ終えると、船長の知人はこう言った。


「1時間で戻ってきてください。高松行きの官用船が出発する前に、自分の船を港から出さないといけないので」


ぼくらはうなずくと、甲板から桟橋に飛び上がって島に上陸し、松の並木路を通って事務所へ向かった。


ここは瀬戸内海、香川県高松市の離島である大島。国立のハンセン病療養所がある島だ。ぼくは、高松在住の写真家・宮脇慎太郎君とともに、前年この島で亡くなった詩人の塔和子さんの蔵書を片付けるためにやってきたのだった。





2012年からおよそ4年間、瀬戸内の島に暮らした。仕事や買い物で高松の町に出るための船に乗り、大島の姿をみかけるたびに、いつか尋ねたいと願い続けてきたのだが、なかなかその機会は巡ってこなかった。


もとより大島は観光客として物見遊山的に訪れる場所ではない。島に渡るには、「国立療養所青松園」の施設見学を目的とした事前予約が必要なのだ。


大島青松園のウェブサイトでの説明をもとに、その沿革を記しておこう。明治40(1907)年、日本で「ライ予防法ニ関スル件」が制定され、全国を5区域に分けて療養所を設立することになった。その2年後、中四国8県の連合立、香川県の管理で「第4区療養所」が開設される。そこはのちに「大島療養所」と改称され、昭和16(1931)年には厚生省の管轄となり「国立らい療養所大島青松園」、さらに太平洋戦争終戦の翌年、1946年に「国立療養所大島青松園」と改称された。


かつて患者は療養所に強制的に隔離収容され、差別や偏見を恐れた家族や地域社会からもつながりを絶たれることが多かった。所内では重労働を強いられることも暴力的な待遇を受けることもあり、入所者は子孫を残すことを許されず、断種・堕胎手術まで行われた。「重監房」に監禁され命を奪われたもの、悲観して自ら命を絶ったものも少なくない。


ぼくは、この国のハンセン病の歴史を真剣に学ぼうとしてこなかった所詮「いっちょかみ」なので、知ったようなことは書けない。しかし大島の地を踏んでしまったからには、この負の歴史を自分の中でなかったことにすることはもうできない、とも思っている。


1947年に特効薬プロミンがアメリカから日本に入り、49年にハンセン病治療の予算化もなされている。菌の感染力はきわめて弱いことが科学的に判明し、適切な治療をすれば治る病となり医療体制も整った。にもかかわらず「らい予防法」が廃止されたのは、1996年。この国はつい最近まで、何十年にもわたって不当な強制隔離政策をつづけてきたのだった。


ぼくらが訪問した当時、大島には職員と患者80名ほどが在住し、青松園の入所者の平均年齢は80歳を超えているということだった。開設からおよそ90年、入所者がひとりまたひとりと生涯を終え、この島の生きられた歴史と記憶は文字通り、風前の灯火と化していた。


ハンセン病療養所の入所者には子孫がいないため、自然な継承関係の中でその歴史と記憶が伝わることはない。最後の入所者が亡くなり、療養所がその役割を終える時、ここは空白の地となるのだろうか。





瀬戸内の大島をいつか尋ねたいと思い続けてきたのには、理由がある。詩人の塔和子さんがそこで暮らしていたからだ。移住前から編集者として並々ならぬ関心を持っていくつかの詩集を読んでいたものの、当時すでに高齢の塔さんが体調を崩されていることを新聞報道で知っていたので、会うことは難しいだろうと思っていた。


そしてぼくが島暮らしを始めて1年後の2013年の夏、塔和子さんは亡くなった。享年84。

35歳の時にキリスト教に入信し洗礼を受けた塔さんは、プロテスタントの大島キリスト教霊交会に通っていた。長年この教会で礼拝を務め、詩人と交流を続けてきた川崎正明牧師とご縁が繋がり、塔さんの死後しばらくして霊交会での礼拝に参加するため、ぼくははじめて大島に渡ったのだった(川崎牧師は『かかわらなければ路傍の人——塔和子の詩の世界』の著者でもある)。


冬の薄曇りの日だった。島には宗教地区と呼ばれる一角があり、神社や寺院や納骨堂とともに教会もある。礼拝に参加するのは島外者のぼくらをのぞいて、わずか3名のお年寄り。


礼拝の後、川崎牧師と職員の方に園内を一通り案内してもらい、入所者の方のお話を聞かせてもらったり資料室を見学したりもした。島では病の後遺症で目が不自由な方の誘導ため、朝6時から夜9時まで街路の各所に設置されたスピーカーから「ローレライ」の曲が静かに流れている。しかしその日は、道を歩いていても誰ひとりすれ違う人はいなかった。


職員の方の配慮で、コンクリート造りの白い平屋がならぶ居住棟にも入った。「ここが塔和子さんの部屋です」と言われて玄関からのぞくと、六畳ほどの薄暗い室内は大方片付けが済んでいて、長年の生活で傷んだ畳がむきだしになっている。奥にちいさなキッチンがある。天井から蛍光灯の照明器具がぶらさがっていて、スイッチのひもにくくりつけてある色あせた人形が宙に浮かんでいた。


隔離された暮らしの中で「光」を待ち続け、「希望」を願い続けた詩人の住まいはこれほど小さなものだったのか、と胸を突かれる思いがした。


 私はいま暗いところにいて

 どこからか光のさすのを待っている

 私はいま未知数だから

 明日という日を待っている

 人に

 待つという希望を与えた大いなるものよ

   ——塔和子「待つ」より



©Shintaro Miyawaki


この最初の大島訪問から数週間後、川崎正明牧師から電話がかかってきて、ぼくはある依頼を受けた。塔和子さんの蔵書は故郷である愛媛県西予市明浜町の施設に送り、一時的に保管している。しかし、晩年に塔さんが受け取って封を開けていない献本類やまったく読んだ形跡のない冊子類など、移送すべきか判断に悩む荷物がまだ残されていて、その片付けを手伝って欲しい——。このような依頼だった。


ぼくは川崎牧師に、封を開けていない献本類や読んだ形跡のない冊子類だとしても詩人の交流の証となるものだから同じ施設にまとめておくほうが良いと説明し、宮脇慎太郎君の協力を得て当地まで運搬をすることを申し出て了解を得た。そして作業のためにふたたび島に渡ったのが、2014年3月のはじめのことだった。


この日、朝早い時間から大島に入ったぼくらは施設の事務所で大きめの台車を2台借りて、記憶を頼りに塔さんの部屋のある居住棟まで向かった。建物のとなりの空き地に2メートル四方ほどのやや奥行きのある物置がある。ここに、詩人の最後の荷物が入っているのだ。


ガタついた物置の扉を力任せに開くと、3段の棚に10箱以上のダンボールが積まれていた。埃を払っていちおう箱の中身を確かめると、献本の封筒や冊子のほかに、パンフレットやカレンダーやチラシ、絵皿や写真立てなどもある。不用品のようにも思えるが、どこに詩人・塔和子の痕跡があるかわからない。資料になりそうなものが少しでもあれば、ガムテープで封をする。カセットテープなどが雑然とつまった箱もあったが、これも運ぶことにした。古い掃除機など小型の家電の類いはそのままにして、大島青松園の方に処分してもらうことにした。


台車にダンボールを積み上げ、最後に塔さんの部屋をのぞいた。かわらず照明器具がぶら下がっているだけで、なんとも言えないさびしさだけが満たされているように感じた。


小走りで荷物を押して、港へ向かう。3人がかりのバケツリレーでダンボール箱を船内に積み込み、台車を事務所に返却してあわただしく挨拶をすませ、出航した。


高松港で、こんどは宮脇君の車にダンボール箱を積み替える。作業を終えると、船長の知人は颯爽と別の桟橋へ帰っていった。小さくなる船影に手を振りながら、宮脇君がこう言った。


 「今日は長いドライブになりますよ」





四国の地を知り尽くす宮脇慎太郎君がそういうのだから、間違いないのだろう。彼は高松でブックカフェを営むかたわら、「聖地」をテーマに四国の山中や瀬戸内の島々を撮影する旅を続けていた。その成果の一部をある雑誌で写真と文章の連載として発表していて、その編集をぼくが担当していたのだった。「旅」の経験や文学・アートの趣味に共通するところもあって意気投合し、のちに徳島県の天空の集落・祖谷の一年を記録した彼の最初の写真集『曙光』を編集し、出版することにもなる。そういうこともあって、広い意味で「本」に関わるもの同士で、詩人の蔵書整理をおこなうことになったのだ。


四国の東部にある高松市から、西部にある愛媛県の松山市までは案外遠く、車で3時間半以上はかかる。ちなみに隣県の徳島市までは1時間半、南部にある高知県の高知市までは2時間。九州・大分につながる豊後水道の宇和海に面する西予市は、松山からさらに2時間ほどの距離にある。


おおよそのルートを確認して、宮脇君の運転で高松市内を出発したのは午前10時前だった。日帰りの予定だったので、慌ただしい移動だ。昼ごはんを食べる時間もないだろうということで、軽食や飲み物を買い込んで高速道路にあがる。亡き詩人の蔵書を運ぶ「長いドライブ」がはじまった。


「やっとここまで来た……」

 

運転席で、宮脇慎太郎君がため息をつくようにつぶやいた。香川県の坂出、丸亀、善通寺、観音寺を越えて愛媛県に入り、四国中央、新居浜、西条、松山を通過して松山自動車道に入り、西予宇和インターチェンジで高速を降りた。ここから山道を抜けて、塔和子さんの故郷まで海沿いの道を行く。


明浜町に入ったあたりから、風景が一気に変化した。みかん畑の広がる緑の丘一面に、黄色やピンクの花がひらいている。明らかに陽気も違う。ぼくらは高松で着込んだ上着を脱いで、窓を全開にした。

 

「桃源郷!」


宮脇君は興奮した様子でダッシュボードにのせたカメラを手に取りシャッターを切る。四国は深い、と息をのんだ。同じひとつの島に山があり、海があり、町があり、瀬戸内とは異なる、南国の風土がここにある。


塔和子さんのふるさともいよいよか、と思ったが、実はここからが長かった。宇和海沿いの道に出たものの、浦の集落をいくつか通り過ぎても、目指す「田ノ浜」に着く気配がない。道を行くお年寄りに尋ねても、「ああ、岬の向こうだよ」とおっしゃるばかりで要領をえない。浦々をめぐって岬を大きく回り込み、ようやく目的地にたどりついたのは、午後3時過ぎのことだった。





地元の町民会館の前で、出迎えてくれた市の職員の方2名と落ち合い、荷物を受け渡す。「塔さんの生家はあそこです」と教えられ、焼杉板の家が並ぶ集落の路地を山側にあがり、生地を尋ねると建物はなく草の生い茂る荒地になっていた。さらに先に進むと墓地があり、「井土家」の墓があった。


塔和子さんの本名は、井土ヤツ子。昭和4(1929)年、この地で8人きょうだいの次女として生まれた。「いつも本を傍らに置いていた文学少女」だったという(高木智子『隔離の記憶』)。13歳の時にハンセン病を発症し大島青松園へ入所した。1953年以降、「塔和子」という筆名をみずからの名とした。ハンセン病の患者の多くは、故郷の親族が迫害されることを恐れて本名を隠し通し、偽名を名乗ったという。


 故郷の村境の小道から

 亡命した私の名前

 ああしかし今も

 私の名前は

 閉ざされた小さな世界の中で呼吸している

 私の影のように

 やっかいで愛しい名前よ

  ——塔和子「名前」より


墓前に線香を立てて瞑目し、黙祷する。ご遺族が思いを込めて墓石に刻んだ名前を前にして、手向けるべき言葉がみつからない。こうべを垂れて「塔さん……」と心の中で唱えることしか、ぼくにはできなかった。


吹く風にうながされるようにして後ろを振り返ると、オレンジ色の実をつけるみかん畑と家並みの向こうで、真っ青な宇和海に光がきらめいているのが見えた。


「まあ、よかったですよね」

と宮脇君が独り言のように言った。


蔵書返却の旅というひとつの仕事をなしとげた安堵感に浸りながら、ぼくはうなずいて、大きく腕を伸ばした。海の青を吸い込むように詩人のふるさとを流れる風を思い切り吸い込み、深く息をついてみる。


そのとき、何かがすとんと胸の奥に落ちるような感覚があった。



©Shintaro Miyawaki




天気の良い昼下がり、自宅から海辺まで散歩し、塔和子さんの詩集をひらく。目の前に広がるのは、詩人が生前に眺め続けた瀬戸内海ではなく、湘南の相模湾。むこうに、うっすらと伊豆大島の影がみえる。詩人のふるさとを尋ねたあの旅から、ちょうど5年の歳月が流れた。ぼくの生活の場所は、香川県から神奈川県に変わった。


川崎正明牧師が、塔さんの蔵書整理の手伝いに対するお礼として、彼女の10冊の詩集を贈ってくれた。以来、枕元に置いてときおり夜寝る前にページをひらいている。なかでも、詩集『見えてくる』に収録された「掌」は、本をつくる仕事をしている自分への戒めとしてなんども読み返している。


 本が積み上げている

 こんなにも好きな本なのに

 いまは目の具合がよくなくて読めない

 かつての日は本は読むものだったが

 いまは積み上げるものとなっている

 本が読めたらもっともっと多くの

 知識をもたせてくれるだろうと

 やるかたない思いの中に居りながら

   今日

   一節の聖句も読まず

   一篇の詩もかんしょうしなかった

   ……


読み返すたびに、熱くこみあげるものがある。宮脇慎太郎君とともに詩人のふるさとへ運んだあの蔵書のなかにも、かつて文学少女だった詩人が読みたくても読めず、封を開けることもできない一冊があったのだろうか。

 

   ……

 その残念さ

 心をかきむしりたくなるようなさびしさ

 大いなるものよ

 このさびしさを癒して下さい

 そして

 あなたの掌(たなごころ)の中の

 小さな私を安らわせてください

  ——塔和子「掌」より


いまぼくは自由に本を求め、自由に本を読み、それどころか私生活でも仕事でも四六時中、本にまみれて生きている。しかし「こんなにも好きな本なのに」読むことができない、「その残念さ」を感じなければならなかった無数の人々がかつていたことを、忘れないようにしたい。


世俗の人間である自分に、死者の魂を癒すことは不可能だ。でも、彼ら彼女らの「心をかきむしりたくなるようなさびしさ」を忘れないことならできる。それこそが、蔵書整理をめぐる不思議な縁をつうじて、亡き詩人から編集者である自分に託された風の約束だったにちがいない。


瀬戸内に住んでいた頃に塔和子さんの文学と生涯、大島のハンセン病療養所の歴史をもっと調べておけばよかった、と後悔の念に駆られることがある。でも、自分のもとには贈られた詩人の本がある。その願いの結晶がある。塔さんの土地から遠く離れたこの海にも風が吹き、浜辺で物思いにふける手の中にある本のページをひるがえしていく。


詩人のことばを介して、その「さびしさ」から問われるものに応える旅はむしろこれからはじまるのだ、という予感を、ぼくはいまかみしめている。



参考文献

川崎正明『かかわらなければ路傍の人——塔和子の詩の世界』(編集工房ノア、2016年)

高木智子『増補新版 隔離の記憶——ハンセン病といのちと希望と』(彩流社、2017年)



#アサノタカオ