サウダージ・ブックス有限責任事業組合    info@saudadebooks.com
© Saudade Books 2018. All rights reserved.
  • Twitter - Grey Circle
  • Facebook - Grey Circle
  • Instagram - Grey Circle
  • Saudade Books

The Road to Yakushima #2(宮脇慎太郎)

最終更新: 2019年10月19日





episode 2


目が覚めると、すべては光りの中にあった。


ついさっきまで水平線しか見えなかった高速艇の小さな窓から、頂に雲をまとい垂直にそびえる山塊が見える。今まで見たどの山にも似ていない、深い深い緑。間違いない、ここは屋久島だ。ついに到着したんだ。ずいぶん昔、自分にした約束を、やっと果たせた安堵感に身体が包まれる。


港に降りると、まずその防波堤の巨大さに驚いた。高さ6メートル、壁の厚さも4メートルはあるだろうか、ぼくの地元である瀬戸内の島のものとは完全にスケールが違う。台風の時などはそうとうな波なのだろう。これは屋久島に限らないが、日本各地を旅すると、およそ居住に適さない土地を時に強引ともいえる土木技術で作り替えてきた場所が本当に多いことがわかる。だがそれはこの狭い国土に産まれた民の背負った、宿業といえるかもしれない。僕たちの先祖は猫の額のような土地さえ利用し尽くしながら、この列島を1億人以上の人間が生活できるように作りかえてきたのだ。


同行した編集者のアサノさんは、予約したレンタカー屋のおばさんと港で話をしていた。どうやら現金しか使えないらしく、その場で4日間の料金を支払うことに。「車は帰る時に適当に駐車場に置いてって」とだけ告げると、おばさんはスッとどこかへ歩き去ってしまった。


屋久島は世界遺産の島となって20年以上の時間が経つはずだが、周囲を見てもそれほど整備されている印象はない。外国人旅行客がもっといるのかと思ったがそうでもない。港の前にはかつて旅した八丈島や奄美大島でも見かけた白いコンクリートの港湾建造物が立ち並び、だだっ広い駐車場が広がっている。






その港湾建造物の一つである旧宮浦桟橋に、アサノさんの知人である高田みかこさんが夫と共に経営する、一湊珈琲焙煎所があるという。南国風の灯台のような形をした建築の中で、そこだけが木材を使って有機的にリノベーションされていた。豆の焙煎もする旦那さんが淹れてくれた珈琲をいただく。屋久島に到着して初めて口にする、この土地の風味。寝起きの身体のすみずみにカフェインが行き届き、細胞が覚醒していく感じがする。聞くと店は以前、一湊という集落にあったのだが、最近、島の中心地であるここへ移転してきたそう。確かに豆の卸しなどをする場合には、港のそばにあったほうが利用者も便利なのかもしれない。


アサノさんたちは打ち合わせをしていたので、僕は一人でしばらく港周辺をウロウロすることに。看板を見ると、近くに「ウィルソン株」のレプリカがあるらしい。豊臣秀吉が大阪城(あるいか京都の方広寺)建設の際に切り倒させたという、巨大な屋久杉の切り株だ。


港のすぐ近くの、高台の上にそれはあった。コンクリート製のチープな作りだが、まずその大きさに驚く。何も知らなければ、テーマパークなどにありそうなドワーフ(小人の妖精)が住む「森の家」だと思うかもしれない。なかに入るとかなり広々としていて、実際に10畳ほどの洞があるといわれるウィルソン株のスケールを実感することができた。これほどの巨木が林立する山は、日本には他にはないだろう。その高台からは、屋久島の山並みも見渡すこともできる。山頂は相変わらず厚い雲をまとっていて、「そう簡単に一見の旅人に手の内は見せないぞ!」とでも言うような島の凄みを感じさせる。今回の旅では、縄文杉やウィルソン株を訪ねる時間はなさそうなので、レプリカでも見れたのはよかった。次回は必ず本物を見たい。






港付近を散策して店に帰ると、ちょうど口永良部島からのフェリー太陽が入港するところだった。口永良部島は2015年に火砕流も発生するほどの大規模な噴火があった火山島で、実際この旅のすぐ後にも噴火を起こしている。いかにも外洋をゆく船といったような鋭利な形の船首。白とオレンジの船が見事な操舵で港に横付けされるのを感心して眺めていると、子どもたちの遊ぶ声が聞こえてきた。







2階に上がってみると、みかこさんの息子が友達とベーゴマをしている。僕は回し方を知らないので、しばらく勝負を見物することに。見事なもので、桶の上に作られたわずか30センチほどのスペースに、二人とも駒を放り投げて回転させている。ベーゴマが小さなブームになっているらしく、夏休みの子どもたちは毎日のように勝負をしているらしい。


「チッチのチッ!」


掛け声と共に紐から放たれて高速回転するコマ。エネルギーを蓄えた小さな鉛の逆三角形がぶつかりあう音は壮快だ。考えてみると、漫画などでベーゴマを見たことはあったが、実際にこの音を聞くのも初めてかもしれない。自分が屋久島に来たこともそうだが、かつて頭の中で想像したり本を読んで知ったりしていたものが実体験に置き換えられていくのは快感だ。結局、経験こそがすべて。旅は確実にそういった機会を与えてくれるからやめられない。


やがてアサノさんたちの打ち合わせも終わり、僕たちは小さな白い軽自動車に乗り込み、ゆっくりと宮之浦の市街地を走り出した。陽もだいぶ傾き、雲の隙間から差し込む西日が山々の輪郭をくっきりと浮かび上がらせている。夏の夕方の湿度があたりを満たし、その空気に包まれていると、この島が持つ情報量の多さに目眩がした。それは瀬戸内の島とはまったく違う何かだった。


屋久島では1日に何度もスコールが降るので、天気予報がまったくあてにならない。僕たちも滞在中に経験したが、海を見ていて雲の下の海面がざわついていれば、それは雨雲だ。雲はみるみるこちらに近寄ってきて、やがて屋久島の山にぶつかり豪雨を降らせる。おそらくこの日も何度かスコールが通り過ぎたのだろう。ただよう空気の独特の湿った匂いは、屋久島の生命力を体現しているような気がした。







徒歩の移動から車に変わると、一気に目に入る風景が加速する。後方に流れてゆく初めての景色たち。町中には登山用品のレンタルの店や、アウトドアファッションに身を包んだ若者がちらほら。道路は信号も少なく空いていて、開放感がある。この島に3ナンバーや外車はきっと似合わない。ヨーロッパの石畳の上でこそアルファロメオが絵になるように、日本の離島は軽自動車でないといけない。幅の狭い道路が多く、何より燃費がよいし経済的だという理由もあるが、似合うということはすべてに優先すると思う。


屋久島は地図で見ると、まん丸の形をしていて、主要道路はその外周にしかない。その日の夜、詩人・山尾三省の法要イベントの一つが、安房の公民館であるということだった。宮之浦の町を抜け、島の東の端にある安房を目指してひた走る。


道路の右側は雲をまとう巨大な山々、左側にはどこまでも続く水平線と入道雲。緑と青の、対称的な二つの景色の間を縫って、道路はひたすら続いている。途中、スーパー兼ホームセンターのような店で水などを買い込んだ。僕は前から欲しかった沢歩き用の足袋を見つけ購入。アサノさんもビーチサンダルを買い、すっかり二人とも南国スタイルに。







そのままこじんまりとした屋久島空港を通り過ぎ、太陽が山の向こうに沈んで世界の輪郭がぼやけて来た頃、安房公民館へと到着した。駐車場にはすでに何人かの人が集まりつつある。なかに入ると、三省さんの弟である明彦さんがいた。アサノさんと一緒に初対面の挨拶。これから僕たちは白川山(しらこやま)という集落にある、明彦さんの家にお世話になるのだ。


2001年に亡くなった三省さんの法要は「三省忌」と呼ばれ、毎年有志により開催されているそうで、今年は生誕80周年にもあたる。この日のために能楽師や作曲家が集まり、本番の8月28日には、三省さんらがコミューンの建設を夢見て生活した白川山の集落で、彼の代表的な詩作品「聖老人」の創作謡公演が企画されていた。この日は前夜祭のような感じで、公民館の舞台で能の公演が行われることになっていた。


一通り挨拶を終えると、僕は会場を抜け出した。実は僕も、三省さんの関係者以外に屋久島で会いたい香川県の友人がいたのだ。彼女は結婚し、5年前に島へ移住していた。今晩なら会えるとのことだったので、安房公民館のすぐ近くにある食堂で落ち合うことに。周囲に牛や熊の像が点在するちょっと独特な雰囲気のところ。ガジュマルの森が切り開かれ、そばが小さな公園のようになっている。そこにある屋久杉に瓦屋根が載せられた異形の祠は、鳥居があるのに周囲を地蔵が取り囲み、神仏習合ともアニミズムともとれる全部盛りの御神体。奇妙なものだったが、この島に充満する濃密で湿度ある空気には不思議とマッチしている気もした。







屋久島に来てから産まれた娘と一緒に現れた彼女は、ずいぶんナチュラルな印象になっていた。香川県の高松にいた頃は、街中のお洒落なサロンでマッサージなどをやっていて、当時のキラキラした生活ぶりを知る者からしたら本当に正反対の雰囲気。食堂で名物トビウオの唐揚げを食べながら、お互いの近況を報告しあい、屋久島の見所などを教えてもらった。どうやら彼女らが以前住んでいた島内の集落も、自給自足のコミューンらしい。ただしそこは白川山とあまり行き来がないらしく、この狭い島に二つもそういう場所があることにも驚いたし、それぞれが独立して存在していることにも感心した。


島の形は丸くシンプルだが、宮之浦岳以外にもピークがたくさんあり、屋久島の地形はかなり複雑だ。さまざまな人が生きる、さまざまな場所を懐に抱き込めるほどの豊かな島山。その自然が彼女をタフにしたのだと思う。何しろ最近まで馬小屋に住んでいたそう。それまで漠然としていた島への興味が、彼女との会話をつうじてどんどん具体的なイメージになってくる。「アウトドアの聖地で世界遺産の島」というような外向きの顔だけが、屋久島の顔ではない。その複雑な地形の数だけ、知られざるドラマを抱え込んでいるのだろう。この短い滞在期間で、なるべくいろいろな島の顔を見たいと強く思った。





彼女たちと別れ、安房の公民館に戻るとちょうど能の公演が終わった頃。僕たちは明彦さんの運転する車について、いよいよ白川山を目指して夜の屋久島の道を走り出した。見ると、水平線の上には巨大な満月が上がっていた。強烈な明るさの月光が、夜の島の輪郭を青白く照らしている。


来た道をそのまま戻り、宮之浦を越えてまずは一湊の集落へ。そこで幹線道路から逸れ、対向車とすれ違うのもままならない細い林道へ入っていく。急に視界が狭くなり、道の両側は真っ暗な杉林。時折その木々の切れ間から見える満月だけが光を注ぐものの、僕たちが走っている道はまるで谷底のような深い闇に包まれている。ヘッドライトのビームだけが漆黒のカーテンを切り裂き、はるか前方を走る車の真っ赤なテールランプを照らしている。


当初思っていた想像の3倍くらいの距離を走ったところで、前を行く車がふいにスピードを落とし、止まった。


着いた。白川山集落だ。


明彦さんの家はちょうど集落の入り口にあり、さらに奥まで道は続いていて、その林道沿いに家屋が点在している気配があった。しかし外は真っ暗だったので、周囲の散策は明朝するにして長旅で疲れた身体を休めることに。


白川山は白川(しらかわ)沿いにある集落で、かつて川の氾濫で一度廃村になった後、1970年代に三省さんたち「部族」のヒッピーたちが移住し、再生させた元祖日本のコミューンともいえるような場所。最盛期は60人ほどの人たちが暮らしていたらしいが、今では15人ほどが住むのみだという。明彦さんの家では奥さんの手料理が振る舞われ、集落に住む手塚さんと娘さんが来て宴会となった。トビウオの刺身をつまみながら、思ったより山深いことにびっくりしたことを話すと、手塚さんも昔のことを懐かしそうに話してくれた。


「そうですよね。僕が初めてここに来た時、あの道はまったく舗装されてなくて土の道だったんですよ。走っても走っても全然着かないので、だんだん不安になったのを覚えています。まあ今ではもうすっかり慣れてしまいましたけど」


手塚さんは終始ニコニコとしていてよく喋り、本当に楽しそうに酒を飲む。京都大学の生態学の調査などを手伝ったりしながら、自身でもさまざまな植物を採集しスケッチしている、まるでムーミン谷のヘムレンさんみたいな人だった。アメリカの伝説的な対抗文化雑誌『ホール・アース・カタログ』に通じるオルタナティブ・ライフを日本で発信した雑誌『80年代』で、白川山への移住者を募る三省さんの記事を見て、埼玉から移住してきたそう。


対照的に明彦さんは物静かな人だが、時折ズバッと確信をつくようなことを言う。昔は神奈川県の横須賀でロック喫茶をやっていたそうだが、兄である三省さんの活動を見て、店舗を人に貸して夫婦で屋久島へ移り住んできたという。移住直後は宮之浦でラーメン屋などをやっていたそうだが、今は三省忌などの活動の中心人物として白川山になくてはならない存在だ。自身も松尾芭蕉の研究を続けていて、酔いが回った頃にまとめた原稿の束を見せてくれた。


話は尽きず、宴は深夜まで続き、こうして屋久島最初の一日は終わった。この日は存分に酔いしれ、何時に寝たのかを全然覚えていない。でも今思えば貴重な時間で、もっといろいろなことを昭彦さん夫婦や手塚さんたちに聞いておけばよかったと思う。いつもそうだ。本当に大事な時間の意味は、その只中にいるあいだは気が付かず、後で分かることが多い。



プロフィール


宮脇慎太郎(みやわき・しんたろう)写真家。1981年、香川県高松市在住。著書に、日本三大秘境と言われる四国最深部の天空の集落・祖谷渓谷の四季を記録した写真集『曙光——The light of Iya valley』(サウダージ・ブックス)。瀬戸内国際芸術祭2016公式カメラマン。2019年以降、初のノンフィクション『ローカル・トライブ』、写真集『rias land 』を刊行予定。

Website: https://www.shintaromiyawaki.com/



#TheRoadtoYakushima #宮脇慎太郎