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The Road to Yakushima #1(宮脇慎太郎)

最終更新: 2019年10月19日





episode 1


「10月に屋久島に行かない?」


記録的猛暑と言われた2018年の夏に、突然届いたメッセージ。他にもその年は大阪北部の地震から始まり、西日本集中豪雨や異常進路の台風など、災害に悩まされた年だった。


初めて屋久島のことを意識したのは、いつのことだっただろう? 世界遺産登録? それとも高校生の時に観た『もののけ姫』だっけ?


いやどれも違う、多分あの時だ。当時、僕は大阪芸大のユースホステルクラブに在籍し、田舎の高校生活から一転、個性的な先輩たちに揉まれつつ日本中を貧乏旅行していた。好奇心の赴くまま、永遠に続くと錯覚していた自由な時間に任せ、18切符を乗り継ぎ、ヒッチハイクをして、もっと遠くへ、まだ見ぬ土地へと心は走っていた。


高校まではずっと美術部で、油絵を描いていた。絵筆をカメラに持ち替えた時の心強さと、その機動性からくる開放感を忘れることはない。日本の工業技術とエレクトロニクスの結晶が詰まった鋼鉄のボディ。その内部に装填したKodak社製のカラーリバーサルフィルム。それさえ持っていれば、初めての人とでも、初めての土地でも、たった独りで闘える気がしたものだった。


奥羽の高山にそびえ立つ廃アパート郡、西果ての孤島に浮かぶ炭坑の島、琉球の聖地に転がる戦闘機の部品、遥か流氷の沖からあがる異国の朝日。もっと、もっと。そんな当時の欲求には際限がなく、常にここではないどこか、目の前の人間ではない誰かを求めていた気がする。


そんな時、サークルの先輩から言われたのか、当時読んでいた本で見つけたのか、今では定かではない記憶に残る一つのフレーズ。「これからは、佐渡島か屋久島が面白くなるよ」。その言葉は忘れられず、自分のセンターに抜けない楔のように、ずっと打ち込まれることとなった。


そして大学生の僕はその二つの選択肢から、世阿弥や観阿弥に縁のある佐渡島を渡航先として選んだ。何故かと言うと、当時付き合っていた彼女が「能」を好きだったというだけ。しかしよく言われることだが、大学時代はあり余るほど時間はあるけど、とにかくお金がないもの。そういった世間一般の例に漏れず、佐渡と屋久島両方へ行く経済的な余裕はもちろんなく、そのまま卒業と就職を経て、社会人生活へと飲み込まれて行くことに。


そして永遠に続くと錯覚していた自由と放蕩の日々、そんなものは現実の世界のどこにもなかった。





ここに来て屋久島への旅を持ちかけられた理由の一つが、山尾三省という詩人の法事への参加というもの。すでに故人となっている詩人を偲ぶ集まりは「三省忌」と呼ばれ、毎年有志により行われているそう。それに今年は彼が生きていれば生誕80周年という、節目の年でもあるらしい。


貧乏旅行と平行し、レイヴと呼ばれる野外フェスに20代の頃から通い続けていた。そんな会場で時おりみかける、仙人のような出で立ちの人々。彼らはどうやら「日本のヒッピー」だと気付くのに、それほど時間はかからなかった。


そもそも当時レイヴでよくかかっていたゴアトランスというジャンルは、ルーツを辿ればヒッピーの聖地であるインドのゴアが発祥。電子音にイスラム音階などの東洋的なメロディーが融合したサウンドは、音楽を通じて新たな精神の地平を喚起させてくれた。単純なものでいつの間にかヒッピーのスタイルにかぶれ、ユニクロよりもマライカなどで買ったアジアンファッション、WindowsよりMacintoshを選び、国内純文学よりもアメリカのビートニクスたちの作品などを読み漁っていた。


日本のヒッピーのルーツは、山尾三省やナナオサカキなどを中心とした「部族」と呼ばれるメンバーが源流らしい。そういった情報も関連書を読み進む上で知った。部族の”ポン”こと山田塊也の著した『アイアムヒッピー』によれば、彼らは70年代にゲーリー・スナイダーなどと交流しつつ、世界のヒッピーカルチャーとリンクしながら、日本でもたくさんの生活共同体(=コミューン)を作っていったそう。当時の野外フェスのシーンは、多分にそういったコミューンの空気を感じさせるものだった気がする。そこに集う人々は皆、優しくも繊細で傷つきやすく、今の社会に生きづらさや違和感を感じている者が多かった。同じ感覚を持ったものが集い、作り上げる期間限定の非日常的な村。


あの時感じた一体感は、確かに本物だったはずだ。それは今も身体と心がしっかりと覚えている。しかし同じ時を過ごして距離が近づくほどに気付く、寂しさや悲しみ。大勢になればなるほど感じる、痛みと孤独。一体僕たちは何度同じ流れ星を見て、焚き火を囲み、何度同じ朝日を迎えたのだろう。インスタントなコミューンを体験した僕ですら、それを長期的に築いて行くことの難しさは容易に想像がつく。


ところがある廃村を復活させるような形で築かれ、現存する日本のヒッピーコミューンの一つが、山尾三省の移り住んだ屋久島にあると言う。そんな情報を得ながらも、自分の身を立てることに必死だった僕は京都の出版社を退職後、東京のど真ん中にある写真スタジオへと転職、寝る間もない多忙な修行生活へと身を転じていた。屋久島への旅は優先順位から、どんどんとこぼれ落ちていった。人生の行きたい所リストにずっと入りながらも、そのまま日常の忙しさに紛れ、今の今までついに浮上することはなかった。


でも、時折本を手にして想いは繋いで来た。特に山尾さんの本で一番読み込んだものが、散文を編集した『聖老人』だった。山尾さんが東京を出て屋久島に移り住む前、故郷の山陰を訪れるエピソードがたまらなく好きで、何度も読んだ。そこには山尾さんの先祖の墓もあり、親族からもここに留まるよう説得される。自分の信念を貫くために、あらゆる困難を乗り越えて来た彼の心は激しく揺れ動く。そんな時に彼の心の支えとなったのが、「聖老人」こと縄文杉の存在だった。屋久島最大の巨木であるその樹に想いを馳せ、ついに山尾さんは故郷を後にする。


消費社会にまみれた都会を脱出して、縁のある故郷も親族も捨てて荒野へと旅立った、かつてのヒッピーたち。理想の実現と自由を求めた彼らが新天地で何を見たのか。その時代をリアルタイムで経験することはできなかったけど、かつてこの国に確かにあった楽園。ずっとその現場を見たかった。


20代の時はゆるやかだと思っていた時間の流れは、いくつもの川の流れが合流していくようにどんどん加速し、僕もいつの間にか世間でアラフォーと呼ばれる世代になりつつある。東日本大震災を筆頭に、この10年でも本当に色々なことがあり、その全てを思い出そうとするだけで呆然としてしまう。重力に引き寄せられるように僕は故郷の香川県に帰り、すっかりローカルの人間となっていた。


星に寿命があるように、人もまた星。遥かな遠回りをした僕と屋久島の楕円形の軌道が、ここにきて最接近するタイミングがやってきたのだった。


それをもう逃したくなかった。これを逃せばその軌道は永遠に外れ、星の寿命は終わり、二度と交差することがないかも知れない。いつの間にかネット上の情報が星の導きに取って代わり、みんなが小さなデバイスを持って、あらゆることに瞬時につながることができる、と思い込まされる世界になった。だが結局、「経験」こそが全てなのだ。そして星の巡りは、いつも完璧なタイミングで訪れる。





声をかけてくれたのは編集者のアサノさん。メールで短く行ける旨を返信した。すると、船の出航時間前に鹿児島港で落ち合いましょうと、これまた短い返信が返って来た。これで後戻りはできない。その日から出発日に焦点を絞り、日々の行動をそこに向けて組み立てていく。


三省忌は8月28日。僕の住む香川県高松からの行き方を調べると、大阪の関西空港からLCCで鹿児島へ行き船にのるパターンと、岡山から新幹線で鹿児島まで行くパターンが安くて早そうだった。関空からLCCのパターンは、一度四国から東へ移動するのが気分的に億劫だった。安く済むなら18切符もと一瞬考えたが、今回の西日本豪雨で山陽本線が何か所か寸断され、バスの代替運転が行われていると知り、結局新幹線で行くことに決めた。


当日朝、早朝の高松駅を出発。人もまばらなマリンライナーは、瀬戸大橋のお陰で箱庭のような海をあっという間に渡り切ってしまう。岡山駅に着くと一転もの凄い人混みで、いつも本州に来たなと感じる。人はどんな環境でも慣れてしまう。東京に住んでいた頃は、大阪の梅田駅ですら人が少ないと感じていたのに……。


学生時代は開通していなかった九州新幹線は快適そのもの。高い山のない広大な九州大陸を、音も振動もほとんど感じさせることなく、一直線に南へと突き進んでゆく。途中地震で被害を受けた熊本を通過する時、鉄骨に囲まれた熊本城の天守閣がちらりと見えた。かつてそこも旅行で訪れたことがあり、加藤清正の意志を体現したかのような直線の石垣が強烈だった。城郭全体が甚大な被害を受けたことはニュースを見て知っていた。この町にはこの町を愛する人たちが生活していて、自分たちのシンボルを総力をかけて復旧させようとしていた。3・11後の東北を旅した時も思ったが、この国の何かが起こったときの修復力は凄いものがあると思う。


原発で有名な川内を大きくかすめるようにカーブを描いて、北海道から始まり列島を貫通する鉄の道は、静かにその最南端へと到着した。時計の針はまだ10時頃で、四国からここまで本当にあっという間。しかし身体は新幹線の速度を覚えていて、確かに遠くへ来たなという感覚もあった。早く外の空気を吸いたかったので、足早に真新しい駅舎を抜けて外へ向かう。


強烈な太陽! それが久しぶりに訪れた鹿児島の印象。2009年奄美大島へ皆既日食を見に行った時以来の再訪だ。日差しから逃げるように、目の前に到着した路面電車へ飛び乗る。鹿児島随一の繁華街天文館で電車を降り、山形屋百貨店の壮麗な様式建築を横目に、商店街沿いに海の方向へとひたすら歩く。いつしか商店街は途切れ、殺人的な南国の日差しに意識が朦朧としてきた。


しかし曲がり角を曲がった途端、目の前の道の向こう、ビルの間に巨大な山塊が見えた。桜島。もくもくと今この瞬間にも噴火口から煙が上がっていて、市街地とこの近さで活火山が同居する、この街のダイナミックなランドスケープに息を飲む。ふと足元を見ると、道の隅には黒い砂が盛り上がっていた。もの凄い量の火山灰だ。生きた大地、生きた街。雄々しくそびえ立つ桜島に元気を注入された気がして、再び地図を確認して歩き出す。


やっと辿り着いた鹿児島港の建物に入ると、中はもの凄い人でごった返していた。さすが世界遺産、こんなにもたくさんの人が屋久島に行くのか……。なんとか空いてる椅子を見つけ、肩に食い込んだバックパックを降ろすと、一気に身体が軽くなった。時計の針を見ると正午を少し回ったくらい。ざっと周囲を見渡してみても、一緒に屋久島へ行く編集者のアサノさんはまだ到着していない様子。これだけ人がいると時間がかかりそうなので、先に船の切符を購入しておこうと窓口へ向かうことにする。


改めて切符売り場を見ると、屋久島行きと種子島行きの窓口があり、列をなした人々はほとんど皆、種子島の窓口に並んでいることに気付いた。後から知ったことだが、人口も屋久島の1万2000人に対し、種子島は3万人と倍以上多い。さら種子島には、屋久島への約半分の時間で行くことができるし運賃も安い。鹿児島県民にとって、夏の海水浴などで身近なのは圧倒的に種子島のほうらしい。


混み合う種子島行きの窓口に対して屋久島行きの人は驚くほど少なく、あっという間に僕の順番がやってきた。ネット予約をしていたので、すぐ手続きも済み「Boarding Pass」と書かれた搭乗券を渡される。


チケットを買って椅子に戻ると、ちょうどアサノさんも到着したところ。種子島行きの船が出発すると、ほとんどの人は出払ってしまい、客船ターミナルの中も急に静かになった。アサノさんがチケットを買い終わるや否や、屋久島行きの高速艇トッピー(トビウオの意味らしい)の出発時間が来ましたというアナウンスが入る。いよいよ出港だ。僕たちは荷物を背負い、ピンク色の船体をした2階建ての船に飛び乗った。


出港してすぐ、窓の外には視界いっぱいに桜島が見えた。その姿は男性的で、鹿児島県民のシンボルに相応しい圧倒的な存在感。遠くから見るとまるでオモチャのような色とりどりの桜島フェリーが、何艘も行き交っているのが見えた。


ピラミッド型の開聞岳を過ぎると、いよいよ本土ともさよなら。目の前には島一つ見えない太平洋が広がり、たまらない開放感だ。視界が消失点に辿り着く前に、必ず島影にぶつかる瀬戸内海とは対称的な風景。同じ海とは思えないが、これもまた海。地球の丸さを視界で感じながら、早起きの疲れが出たのか、やっと果たせる屋久島への旅立ちに安心したのか、自然と意識がまどろみ眠りに落ちてしまった。時速80キロで滑るように船体は南へと突き進む。そのエンジンの力強い振動だけを、微かに身体に感じて。


目が覚めた時には、きっと約束の地に辿り着いているだろう。



プロフィール


宮脇慎太郎(みやわき・しんたろう) 写真家。1981年、香川県高松市在住。著書に、日本三大秘境と言われる四国最深部の天空の集落・祖谷渓谷の四季を記録した写真集『曙光——The light of Iya valley』(サウダージ・ブックス)。瀬戸内国際芸術祭2016公式カメラマン。2019年以降、初のノンフィクション『ローカル・トライブ』、写真集『rias land 』を刊行予定。

Website: https://www.shintaromiyawaki.com/



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